私 的 吉 野 家 論
                        

どんぶりになるものが重箱に入っている場合がある。
うな丼がうな重、天丼が天重、カツ丼がかつ重などがそうで、重箱に入ったほうがなんとなく高級に感じるのか、特にうなぎなどは「どんぶり」と「重箱」が同じ値段の場合でも重箱を選ぶ人のほうが多い。
しかし、そんな風潮にひきずられず孤高を貫いているのが牛丼である。牛重というのにはまだお目にかかったことがない。牛重を作らせなかったことには吉野家の貢献は少なからざるものがあったはずである。

子供の頃から父に連れられて魚河岸に行ったが、早起きをして、仕入れを終わって魚河岸の食堂で食べる朝飯はほんとに楽しみだった。小生の好みに合わせてくれたのか、よく行くのは洋食屋で、いまは当然の食べ物となったカツカレーも魚河岸が初体験だった。定番人気メニューのカツカレーは魚河岸が発祥地らしい。
国民的人気のカツとカレーを一緒にしてしまえというところからか、カツの上にカレーをかけて「のっけ」とよばれていた。
しかし親父に吉野家に連れて行ってもらった記憶はない。

吉野家に行く客は仕入れ客では魚屋、そして市場の軽子が多かった。
軽子(かるこ)とは1000軒以上もある仲買のそれぞれの店に所属して、競り落とした魚(100キロ以上の大きなマグロまで)を店に運んだり、仕入れた品物を茶屋(自動車・トラックで運ぶ配送所)まで手押し車で運んでくれる運搬人()で、忙しい配達の間での飯だから、何を食おうか考えなくてもよく、「並!」(指一本出しても通じる)といえば、数秒で出てくるものを、ぱっとかっ込んで、終わるまで5分とはかからなかった吉野家でなければならなかったはずで、ほかの店に比べ、圧倒的に軽子が多かった。



手押し車を巧みに動かして当時の客のひしめき合っている市場の狭い通路をぬって運ぶのは、町のそば屋の出前持ち同様「職人」といっていい連中だった。
 
魚河岸に仕入れに行く客の中でも吉野家常連には「魚屋」が多かった。飲食店のおやじ等は「吉野家は車夫馬丁のいくところ」などと思っていたのだろうか、すし屋、天ぷらや、うなぎや、洋食屋などには行ったが、吉野家には一度も連れて行ってもらったことがなかった。
調理のプロ・飲食店の親父の集まる魚河岸の食堂街・・・食を楽しむことより、短時間(急げば5分ほどで)で飯を済ませすことのできる吉野家はあまりにもあっけなかったからかも知れない・・・

後になって吉野家に行くようになっての話だが・・・河岸の中にはほんとに好きな「通」もいて、いつも頭をきれいに刈り上げた品のいい、ちょっと歌舞伎役者のような旦那が毎日「きちん」とした姿勢で静かに食べている。吉野家の客のなかではちょっと目立つ存在で、あるとき後をついていったら、高級干物の仲買で、ほんとにいい干物を扱っていて、以後二十年以上にわたり付き合った。
「旦那はいつも吉野家でお見かけしていましたが、ほんとにお好きなようですね」などと告白したとき、「好きで、今もうまいけど、昔は秋にはマツタケも入っていたよ・・・」という驚くべき話を聞いたことがある。
その後、その干物屋から廃業の連絡をいただいた。なんでも息子さんが東大の工学部を出てロケットの研究で科学技術庁に勤めてしまい、あとを続けられなくなったとのことだった・・・


魚河岸吉野家案内図

魚河岸の場内には40軒ほど、また場外にも食堂や屋台もあるが、そのなかには牛飯、牛丼の屋台もある。

そもそも牛丼はすき焼きの残りをご飯にかける、という発想からできたもので、ご飯の上に牛肉、焼豆腐、ねぎ、しらたき・・・などを乗せるのだが、そうした屋台の牛飯屋には、おでんのような仕切りのついた鍋がかかっていて、それらが仕切りで丁寧に分別されて入っている。注文をすると割烹着のおばさんが丁寧にそれぞれをどんぶりに並べる。客もどんぶりを手にとって、乗せられた具のバランスをしみじみと楽しんでから食べ始める。どんぶりにぱっとぶっ掛ける吉野家とは大違いだ。

吉野家の味を覚えたのは自分で魚河岸に行くようになった昭和39年頃からである。
なんであんなに客がいるのかに興味もあったが、しばらくは遠目で眺めていた。はじめて入った時はちょっと緊張を感じた。混みいった店内は常連の「あたまの大盛!」、「だく!」、「皿!」・・などという符丁が飛び交っている。

吉野家は場内の食堂の長屋の一角にあり、ほかの店と同じく台所を含めて5坪ほどの店だ。客席は細長い店に“コの字”型についたカウンターだけで、丸いすの数は20席ほどだったか。丸いすと壁との間は客が体を横にしてやっと入れる空間しかない。
混んでいて奥のほうしか空いていない場合には、食べている客の後ろを「ごめんよ」などといって通ると、食べている客もこころえたもので、どんぶりをかっ込みながら立ち上がって椅子を引いてくれる。

築地魚河岸 吉野家の店内配置図 (記憶による)

30センチほどのカウンターの上には、お新香紅しょうが唐辛子・・などが置いてある。
すき焼きに紅しょうが、唐辛子をかけることはまずないだろうが、この組み合わせを考え付いたのも吉野家で、唐辛子や紅しょうがを肉が見えなくなるくらいにかける客もいる。
お新香は白菜で、カウンターの上においてあるので、はじめは只かと思ったが、牛丼の並が200円のころ30円(20円?)だったと思う。生卵はお新香と同じ値段。

座るや否や(座ってから何を食べようかなどと考える客はいない)「並!」と同時に「なーみいっちょう」と店員が復唱と台所へ発注。
注文して数秒のうちに牛丼が目の前にあらわれると客は頭の後ろに手を回して箸をさがす
箸入れは壁に掛けてある
なんせ、丸いすと店の壁との間が人が横になってやっと通れるくらいだから、いすに座って手をうしろにまわして(振り返る必要はない)、頭の高さ辺りの壁を探れば誰もが箸入れに手が届く。そのなかには“天朱”が差し込んである。
天朱”とは本体は黄色であたまは赤く塗った最下等の安箸で、昔から一膳飯屋などのお決まりの箸だ。昭和30年代になると豊かな時代を迎えつつあり、屋台も一回一回新品の割り箸になってしまったが、吉野家は珍しくなりつつあった“天朱”を断固として使っていた。また、その置き場所(掛け場所)もきわめて独創的で、初めて知った時は感動を覚えたほどだった!(チェーン展開して割り箸になった時は、がっかりした)

吉野家の牛丼はすき焼きの残りの継続ではなく、はじめから「吉野家の牛丼」として創作されたものではないだろうか。肉はすき焼きに使うこともなかったバラ肉(肉と脂の交互になっている三枚肉)で、しゃぶしゃぶほどではないがかなり薄く切ってある。そして肉以外は玉葱だけである。
牛バラ肉とたまねぎは直径6〜70センチ、高さも4〜50センチほどの大鍋のひたひたのつゆの中に入っていて、いつもことこととした状態で火にかけられていて、その前で親父がしゃもじで絶えずゆっくりと鍋の中をまわしている。

メニューは、並、大盛、並皿、大皿、ご飯、お新香、たまごだけだが、そこに客のオプションを付け加えることが出来る。
   (ほかにお土産として、竹の皮に包んだ牛肉が100g/250円?もあった)







あたまの大盛(肉だけ大盛 ご飯は並) 
つゆだく(汁を多めに・慣れた常連はつゆを抜いて「ダク」などと注文する) 
つゆぬき(汁をよく切ってくれという注文・それなら肉皿と白いご飯を食べればいいのにと思うが・・・) 
ねぎぬき(玉葱を抜いて) 
とろぬき(肉の脂身のところをぬいて) 
よく煮えたところ等など・・・できる範囲でどんなオプションにも応える。
 
狭い台所は洗い場と飯炊き、飯盛り係、そして肉をかける親父で一杯だが、メニューはシンプルだから、どんなに込んでもいとも簡単で、「並み一丁!」で飯盛係は黙って飯を盛り、親父に渡す。親父も黙って肉をどんぶりにかける。
 肉を追加して煮る場合でも、薄く切ってあるからすぐ煮える。当然よく煮えているところを先に使うが、時には「煮え立てのところをくれ」などという常連のオプションもある。載せる肉の分量は目検討だが、シンプルな作業だからほとんど狂いはない。だまって出てくるご飯にさっとかけて完成だ。

吉野家の狭い店内にはカウンターと台所(表から見える)で6〜7名の店員がいるが、服装はいつもきれいに洗濯されていた白衣で、女の子は頭に三角巾、男は真っ白なタオルを巻いていた。

すれ違い出来るかどうかの寸法の“コの字”のカウンターのなかには3名ほどの店員がいて、注文を通し、できたどんぶりを客に出し、食べ終わった食器をさげ、さらにそれぞれの店員が客の食べた分を計算し、勘定をもらって上からぶる下がったざるに入れる。
牛丼の並と大ともに錦のどんぶり(現在も使っている色彩豊富などんぶり)で、大盛用はどんぶりの内側にも柄が入っている牛皿の大と小は皿の大きさで、そしてお新香生卵もその使った器で見ての暗算で、伝票などなくても子供でも出来る。


魚河岸での楽しみ・朝飯は40軒ほどの店の中で・・・・

すしは「弁富」、のちに「大和」「すし清」
「弁富」のすしの勘定は自己申告方式。10貫一本などと申告する。ごまかしはほとんどなかったようだ
たまに「すし文」 親父はベレー帽をかぶって握るちょっとかわりもの。あなごがうまかった

天ぷらは「天房」
兄弟3人でやっている。この兄弟も変わり者。揚げ方は長男で、形などお構いなしに、手早く鍋にぶっこむから自分も油のやけどだらけ。鍋のそばに座ると時々熱い油がかかる・・・

洋食は「たけだ」または「禄明軒」(本格的洋食)、時々「豊ちゃん」(ノッケの創作店)

うなぎは「福千」、和食は「かとう」
かとうの巨漢のおかみは「何を食うんだ!」とどなる。魚河岸以外では無理か・・・

カレーは「中栄」
ここは逆に品のいいおかみさんが、カレー一丁願います・・などと上品に通す・・・

ラーメン中華は「ふじの」
威勢のいいぱきぱきした姉さんがいて、ラーメンには分厚く、でかいでもチャーシューが入っている)・・・

パンとシチュウは「センリ軒」。
パンにはバターがてんこ盛り。時々そこに砂糖をかけて食べるのに凝った。シチューはお新香どんぶりのような中に入って、注文で半熟をいれてくれる。カステラに餡子がはさんであって三角に切ってある「シベリア」にバターをたっぷりぬって食べるのが好きだった・・・

たまに「茂助だんご」で赤飯、雑煮・・・・

・・・・などのローテーションでまわっていたが、いったん味を覚えてしまった吉野家は特に中毒のような状態になってしまい、そのローテーションの中のきわめて重要な一角を占めるようになる。
寒い冬の早朝の空いた電車の中で、手を暖房の通った椅子と尻の間に入れて座るが、頭の中は味までが思い出せる吉野家の牛丼で一杯で、市場につくやいなや仕入れ前にまず牛丼をかっ込み、仕入れが終わってあらためて別の店で食べる、などというほどのものになっていた。・・・・



魚河岸からスタートした吉野家がチェーン展開をはじめたのはいつ頃からだったかはっきり記憶していないが(調べればすぐわかるだろうが・・・)、はじめてのチェーン店は、新橋駅前だったと思うが、小生にとっての吉野家はやはり河岸の中の店だ。
昭和39年〜40年代、牛の鍋の前に立って、だまってどんぶりに肉をかけていた親父は、いつも鍋の中をじっと見ていたことを覚えている。話したことはないが、おそらくチェーン展開する構想を練っていたのではないだろうかと今でも思い出す。

この吉野家のシステムはその後チェーン展開し、一時急激な店舗展開からの資金難で現在の体制になったそうだが、その原型があますところなく引き継がれてきたということは、いかにこのシステムが優れていたものであったかということの証明だろう。加えて、魚河岸に通う常連の符丁、「あたまの大盛」「つゆダク」・・・まで現在の紙の帽子をかぶった若い店長・店員にまで伝えられている。
(のちに海外第1号店がビーフ・ボウル・YOSHINOYAとしてアメリカ・デンバーで開店したというポスターが店にかけてあった)

飲食店の理想である小種メニュー、シンプル調理、そして誰もが出来る(といっても、計器を使わず、目検討でいつも一定の分量の肉を計るのは独自の訓練が必要だろうが・・・)マニュアル化があると思う。吉野家に通うようになって味もさることながら、その芸術的システムにも感動したものだ。(ぶっ掛け飯でいつもつゆダクを頼んでいたから、米を味わったことなどない)

吉野家のチェーン展開にはマクドナルド、ケンタッキーなどからの刺激もあったに違いない。
いわゆるファースト・フードの日本版・吉野家は当初チェーン展開など考えてもいなかったにもかかわらず、まるでチェーン化するにためにつくられたような優れたシステムを持っていることに自らがはじめて気がついたのではないだろうか。

マクドナルドの日本への移入は、1970年代だったか?
銀座三越からはじまったが、その後徒町の吉池も開店。近隣では船橋が早く、松戸では常盤平店が初めてだったが、船橋、常盤平にはよく買いに行った。

日本マクドナルドはその綿密な市場調査と合理的システムに基づく圧倒的な物量作戦とによって、日本の食文化まで変えつつあった。
マクドナルドは「立ち食い文化」を日本に根付かせた。
おふくろの味の記憶(小学校までにいつも食べていたものが、生涯「おふくろの味」の記憶として脳髄にインプットされるそうだ)を変えてしまった。(それは後に子供の咀嚼力まで低下させることにもなるが・・・)
そのマニュアルは、まさに「アメリカ軍」を連想させる機械化による合理化と使い捨て文化で、資源の浪費をなんとも思わない日本社会までも創ってしまった。
はじめてマクドナルドに行ったとき、あの100円のパンのために使われている上等なステンレス製の紙ナフキン入れ、上等なストロー、使い捨てするにはもったいなさを感ずるような紙コップなどにびっくりしたことと同時に、この国と戦争したことの間違いを、あらためて知らされた記憶がある。
そして戦争に強いアメリカを受け継いだマクドナルドは、「たべもの」を「」にしてしまったのだ!(しかし、その後の日本マクドナルドは迷走し、その迷走は現在も続いているようだが・・・)

吉野家には、そうしたアメリカのマニュアルとは異なる日本的なシステムがあった。
「男子専門一膳飯屋」で、日本の象徴的食卓道具・割り箸の使用までも拒否した。
しかしその吉野家もその後の日本の企業の多くの、いわゆる「外食産業」参入の波に巻き込まれチェーンを展開することになったが、マクドナルドにおいて定着した“カッコいい”「女の子の立ち食い」と同じように、吉野家で女の子に「牛丼を手に持ってかっ込ませる」だろうか?という疑問を持ったことがある。
しかし、社会は変わり、あの焼酎は「ショーチュー」になり、いまや男以上に飲むようになった若い女の子の人気ドリンクになった。吉野家も「女の子のどんぶりかっこみ」の抵抗感を消し去った。あの魚河岸時代の白衣と三角巾は紙の帽子になり、ほっぺたの赤い女店員から、スマートなアルバイト学生になった・・・・


最近世界的に発生しつつある食肉の安全に関する問題は、吉野家の屋台骨を揺るがす一大事となりつつある。
突如として降って沸いた、吉野家にとってはまさに驚天動地のこの問題は、牛丼の吉野家から、そのご本尊を消滅させようとしている!
吉野家において牛丼が消えるということは、あたかもヴァチカンがペテロ像をほおり出すようなことではないか!豚やカレーが吉野家の牛の代役を勤められるのだろうか?

醤油の香りへの欲求は日本人のDNAに刻まれた本能に近いものであり、それをベースとした吉野家の牛丼は時には絶対に食べたくなるもののひとつである!
縁日の焼きトウモロコシ、駅そばと同じように、吉野家の前であのにおいをかぐとついつい吸い込まれてしまう。その吉野家が想像もしていなかった変革を迫られている!!

いまや外食産業・チェーン店のみでなくあらゆる食産業によって、本来人類の「生きるための食を支え、飢えを凌ぐもの」の枠をこえ、「快楽」追求だけが目的かのような、かつてローマ帝国を滅ぼした以上の爛熟しきった食文化、価格競争の具にされている「生き物」の復讐が始まったような気もしてならない・・・・
(H16年2月8日)
食べもの
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