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田中隆吉
敗因を衝く 軍閥専横の実相
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序
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昭和二十年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾した。大東亜戦争はここに惨憺たる敗北をもってその終りを告げた。
この無条件降伏の瞬間まで、最後は必ず勝つと教えられ、また必ず勝つと信じていた国民は、呆然として自らを失い、唖然として言うところを知らなかった。
しかして今や何人も異口同音に「何が故に?」と敗北の原因を問い尋ねつつある。
私は軍人の落伍者である。
しかし昭和十三年十二月から、昭和十七年九月に至る四年の歳月の大部分を兵務課長として、また兵務局長 (軍人及び軍属の非違行為監視監督する) として、これを陸軍省において過ごした。
その職掌柄、全く政治、外交、経済の圏外にあったので、これらの事柄とは何らの因縁はなかったが、これがために陸軍の中枢部において、中期以後の日中戦争と初期における大東亜戦争の推移とを、極めて冷静にまた仔細に眺むる事を得た。
故に私は不肖ながら七千万の国民が斉しくその胸に抱く「何が故に?」の謎を解く資格を有する一人であると信ずる。
私は敗戦後、今日に至るまで、あるいは新聞にあるいはラジオに、この謎を解かんとする様々な意見をこの眼に見、この耳に聞いた。しかしながらそのいずれもが断片的にあらざれば微温的であって、敗因の真髄とその根底に触るるものが見当たらぬ。
古来日本人は、物言えば唇寒しとして、言挙げせぬことをもって美徳とする。
しかし私は事ここに至って美徳ならずとの理由によって、国民の聴かんとするところを黙して語らざるは、苦難多かるべき明日の日本のために美徳を以てかえって美徳にあらずと信じたるが故に、あえて自らその不敏を顧みず、去る九月四日(注・昭和20年・終戦の詔勅の20日後)稿を起し、「敗因を衝く」と題してこの拙き文章を書き綴った。 |
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私をしてここに忌憚なく言わしむれば、敗戦の数々の素因は、戦争勃発の前にすでにその萌芽が存在していた。故に私はこの稿を起すに当たって、第一篇を「戦争勃発の前夜」とし、第二篇を「戦争勃発とその後の一年」として、私の身辺を回って起こった事件と私の見聞した事実を、ありのままに述べ、第三篇において、戦争の敗因と思われるものを明らかにし、第四篇において、軍職を去らしめられたる後の私の所信とその行動の概要を「後日物語」として書き連ねた。
書中に引用した人々の言葉は、私の記憶にして誤りなくば、誇張もなければ虚偽もない。
これらは大東亜戦争の間には絶対口外を許されざるものであったが、今日に至ってはもはやその要なしと信じたるが故に、僭越ながらその人々には何らの断りもなくこれを明るみに出した。
故にこれを不都合なりとして怒る人あらば、願わくば明日の日本建設のために、寛容なる態度をもって宥恕せられよ。また私の意見を独断に過ぐるものとして譏る人があるかもしれぬ。
あるいはまたこの書をもって自己宣伝なりとして批難する向きもあるかも知れぬ。
しかしそれはなるべく私の所信と真実とを伝えて、いささかなりとも、新しき日本の建設に奮い立たんとする人々の心の糧たらしめんとしたほかに他意はない。
故にこれらの譏りと批難は、喜んでこれを甘受する。
敗戦の直接の契機となった原子爆弾の出現は、人類の戦争に終止符を打つものと私は確信する。
もし、果して、しかりとすれば、将来日本および日本人の歩むべき道は自ら明白である。私はこれに対しても一個の意見を抱く者であるが、しかし今ここにはそれを書く暇がない。他日もし機会を得たならば、ふたたび禿筆を呵して世に問うてみたいと思う。
この書を記し終って私の衷心から痛惜に堪えざるは、第一戦において散華した至誠尽忠の勇士と、爆弾の下にその尊き生命を犠牲にした、数多き無辜の国民諸氏である。謹んで合掌し、恭しく哀悼の誠を捧げる。
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| 昭和二十年九月二十四日 |
田中隆吉
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「東京裁判と父田中隆吉」 田中 稔 (『敗因を衝く−軍閥専横の実相』192頁) |
| 文字着色 改行編集 |
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敗戦後間もなく、父田中隆吉は軍部批判のうっ積した感情を爆発させるように、一気呵成に本書を書き上げた。そして早くも、翌二十一年一月には発売にこぎつけた。その思いの激しさを裏づけるように、父はその中で今次大戦の敗因について、きわめて明解に自分の所感、主張を述べている。東京裁判がまさに開かれようとしていた時である。本書が総司令部(GHQ)の目に止まったことは、容易に想像される。
父の晩年まで親交があった東京新聞政治部記者の江口航氏の手記が残されており、その引用を中心として、父と東京裁判の関係を追ってゆきたいと思う。・・・・ |
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江口氏は事の始まりを、次のように記している。 |
年が明けて昭和21年、戦後初の総選挙(4月10日)が近づいた頃、首相官邸の記者クラブに米軍将校がたずねて来た。田中の手記の載った新聞を示して、この筆者の住所が知りたいという。逮捕するのかと聞くと、『逮捕命令はうけていない。国際検事団からさがせと依頼をうけただけだ』と案外おだやかな態度であった。・・・・・
それから1ヶ月ほど後、首相官邸の記者クラブに詰めていた私に、田中から突然いつもの唐突な調子ですぐ来いという電話が入った。・・・・・
・・・田中は一通の電報を示した。『国際検事団に出頭されたし』という第一復員省からの電文であった。・・・・
担当検事は陸軍の大佐の資格を持ったウールウォースという老年の紳士であった。・・・
・・・この太った外人、即ちヘルム検事は自らを自己紹介すると、開口一番、「私の質問に対して真実を語らないと、絞首刑になるぞ」と威嚇に満ちた表情で、首に手を横にして絞首刑の様子を示しておどかしにかかって来た。
父はこれを聞くや大きな声で動ずるところもなく、「私も日本帝国軍人の一人である。貴官がそんな脅迫によって私に対するならば、一言も答えるわけにはいかぬ。あなたのその態度は私にとっては全く不愉快である。しかし貴官が公正な立場で日本の将来のために事の真相を明らかにするという立場から私に協力して欲しいと言うのならば、日本人の立場として私も貴官に事の真実をのべるつもりである。巣鴨へ入れようと絞首刑にしようと、私は一向に差し支えない。私の言うことが理解できないのならば、貴官の思う通りしたらよいではないか」とかなり激しいやりとりが行われた。・・・・
・・・夕刻近くになると、ヘルム氏は、パーキンソン少将に紹介するので別室に来て欲しいと父に告げ、・・・
・・・パーキンソン少将が、「ミスター田中、私は米国のジェネラルであるが、貴官も日本のジェネラルである。これからはジェネラル同士として対等につき合うようにしたいものです」と話し、ここから、検事団内では以来、父をジェネラル田中と呼ぶようになった。・・・・・
・・・父は、その話の中で、「奴らは何もわかっておらんな」とつぶやいたように、その当時の国際検事団としては父が出頭した時期でも、その捜査の方針は決まっていなかったようで、どんな人々を喚問して調査すべきか確たるものもなく、「多くの無駄な時間を費やしていたようである。・・・・・ |
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| ・・・・その頃の事情を江口氏の手記により窺うことにする。 |
「最初の頃は検事団の調べは軍の諸制度、統帥部の所感の区分などに集中した。首相も陸相も政務上の輔弼の責任があるだけで、政府とは別個に統帥部が独立していることもわからず、わが国独自の制度はなかなか理解し難いようであった。
具体的な政治上の問題、軍事上の事件についても過大な解釈や見当違いがあって、そのためにむやみやたらに戦犯容疑者を網にかけては、いたずらに審理を混乱させていた。田中はその一つ一つをできるだけ正当に解明して、検事団を啓蒙していたものと固く信じていた。・・・・・
・・・理論的にはともかく、実際上彼らが戦争犯罪の範疇をどの線にきめるかわからないが、少数の事実については最小限度誰かが責任をとらざるを得まい・・・・
・・・したがってこの際出来るだけ少数の人に重い罪を背負ってもらって、その範囲をしぼるように努めるよりほかにはない。またそれが多数の容疑者を救う唯一の途でもあるし、誰も罪をかぶらないと、お上に責任が及ぶことにもなりかねない。そんな結論に達した。
私は、しかし田中さんの真意はおそらく世間に通じまいと思う。
たとえ東条一派に抗ったにしても、旧軍人の貴方が検事団側に協力する形になれば、かつての上司や同僚の足を引っ張る者と見られるだろう。
その非難に耐える覚悟を問い質したとき、どうせこれまで散々悪口を叩かれて来たんだ、覚悟しているよ。田中はあっさりそう答えたが・・・・」 |
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| 続いて江口氏の手記を引用させていただく。 |
「ある時、キーナンは田中に向って今次の戦争についてどう考えるか、と質問した。田中は彼に対して、戦争の正当性を強調して次のような意見を述べた。
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(要約) |
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戦争の見通しを誤り、長期にわたって戦う準備なくして戦をはじめたこと。 |
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短期戦で収拾すべき手だてを怠った上に、局面を糊塗しながら国土を荒廃させて今日の悲運を招いた。 |
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大局を誤った責任は、軍指導部が負うべきもの。 |
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国家機構の中で武力を把握する軍の組織が権力を伸ばし発言力を強めると、必ず政治関与がはじまる。 |
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軍人が政治に関与すると、軍閥を助長し、軍律がみだれて腐敗が生じる。 |
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軍の腐敗は諸悪の根源。 |
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今日外国の指弾をうけるような忌まわしい事件なども、軍律の弛緩、下克上の風潮などの軍の腐敗が生んだ。・・・ |
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・・・キーナンは同感の意を表して、・・・・それから態度がガラリと変わり、うちとけた調子で次のような思いがけないことを話した。
・・・・実は私は日本に赴任する直前に、トルーマン大統領からきわめて重要な指令を受けてきている。そのことはマッカーサー司令官も了解ずみで、東京裁判での一番大きな任務なのだ。
それは、こんどの裁判を通して日本の天皇に戦争の責任がなかったという結論をうち出すことである。
また二、三の国から法廷に於ける天皇の証言を求めるような要求があっても、天皇が出廷されることのないようにこれを阻止すること、これが私のつとめなのだ。
ゼネラル田中、君は天皇を助けるために、私に是非協力してくれるだろうね・・・
田中は、きのうの敵であるキーナンの口から意外なことを聞かされて驚いた。彼は即座に全面的な協力を誓って、キーナンと握手をかわしたのである。・・・・ |
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| 法廷において・・・江口氏の手記 |
・・・田中証言に立腹して、彼を忌避したのは橋本(欣五郎)、武藤(章)、佐藤賢了であったと田中は語っている・・・
板垣征四郎はかつて目をかけた部下の証言にはじめは立腹したが、田中がマホマック弁護人を通じて、『この際、国家再建のために事実を明らかにする必要がある』という手紙を書いて了解を求めると、どうせおれは死ぬんだから遠慮するな。お前は思う通りやれ、といって寄越した。板垣は他の被告と違って弁明することなく、一図にすべてを否定した。何もかも、違う、知らぬ、で押し通し徹底していた。反抗的というより、むしろ虚無的にさえ見えた。・・・・・
・・・裁判期間中の田中証言は数回にわたり、昭和3年張作霖爆破事件にはじまって、満州事変の発端をなした柳条溝の満鉄線路爆破事件、シナ事変をひきおこした盧溝橋事件、国内における三月事件、十月事件、日米開戦当時の国内情勢など多岐に及んだ。
田中の検事側に対する証言、弁護団側に対する返答は共に例のごとく、テキパキ遠慮会釈のない明快さで真相に触れて、世間を驚かせた。 |
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第1日目の証言に引続き、父はのちに数回、証言台に立っている。異例の証人の出現によって、にわかに東京裁判は世の人の注目を浴びるようになった。
再び江口氏の記述に戻ることにする。 |
実のところ私もハラハラし通しであった。
案の定、田中に対する風当たりはつよくなり、新聞は、“怪物”あるいは“モンスター”と田中証人に肩書きを呈した。
その頃の新聞原稿は、事前にGHQのきびしい検閲を通らなければ陽の目を見なかったが、東京裁判は、裁判のやりとりを最大限に報道出来るよう大目に見たのであった。
つまり連合国側の、東京裁判を日本人の再教育とみせしめの機会に利用しようという意図が明白であった。
事実一般国民はよかれあしかれ、満州事変以来の政策遂行の過程や内幕などを、新聞の法廷記事を通じて初めて知ったのである。南京の大虐殺も、マレー半島の華僑虐殺事件も全くの初耳で、国民は仰天させられた。
しかし国民感情は微妙に作用する。
これでもかこれでもかといろんな事件を並べ立てられると、次第に目をそむけたくなる感情も働いて来る。
敗戦による過去の傷口はあまりにもむごく、大きく、痛い。田中はその傷口に容赦なく指を突込む“怪物”と映じたのだ。
しかも裁判は、本来勝利者たる旧敵国の報復であって、田中はそのお先棒をかついで仲間の過去をあばく者としか見えないのも、一面無理からぬことであった。
一部の消息通は“田中自身が綏遠事変や、第一次上海事変の張本人ではないか、自分のことは棚にあげて、ひどい男だ”と批難した。
しかしこの事件は両方ともかくさずに検事団に話をしてあった。
田中は綏遠事件の方はともかくとして、第一次上海事変は責任を問われるかと思ったが、キーナンは派生的な事件としてあまり問題にせず、法廷にも持出さなかった。
田中が法廷で証言に窮したのは柳条溝事件であった。
昭和6年9月、柳条溝の満鉄線が爆破されたのを中国側の仕業だとして、関東軍が軍事行動を開始したが、この爆破作業は石原莞爾の命令で、今田新太郎がやったものだ。今田はその時、張学良の軍事顧問だった。田中は直接今田の口から聞いていた。
・・・ウエップ裁判長は、『君が答えなければならぬ』という。
切羽つまった田中は、『日本は中国側がやったといい、中国は日本側がやったといった』と苦しまぎれの証言をした。
田中がこの証言を渋ったのは、当時今田がシンガポールで抑留されていたからだった。・・・・・ |
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そのうちに田中のところへ被告側からも証人台に立ってくれという依頼があった。木村兵太郎、梅津美治郎、東郷茂徳、畑俊六の四名である。田中は快諾して、一応キーナンの了解を取り付けた。
各被告に対する証言は、木村兵太郎がはじめは対米英開戦に反対で、野村大使の交渉に希望をかけていた事情、梅津美治郎も米英に対する戦争には極力反対した事実、東郷元外相はもともと平和主義者で、戦争末期には田中と組んで和平工作を企てたことなど、畑俊六は三国同盟に反対だったため、武藤軍務局長の策謀により、国策遂行に適切でないという名目で辞任を強要され、米内内閣を瓦解に導いた経緯をそれぞれ証言した。
そんな田中の態度は、世間の目には奇怪にうつった。しかし彼は、『おれは検事団に雇われているわけではない。事実を述べるのに検事側も被告側もあるか』といって取り合わなかった。・・・・
たまたまB級戦犯として、オランダがジャバ方面の軍事法廷で、今村均司令官と岡崎清三郎中将に死刑の論告があった。(田中は判決があったと思い込んでいた)。
田中はかねてから、今村均大将の人格に傾倒していたので、キーナンに向ってはげしく訴えた。・・・・
『もし今村、岡崎を死刑にすれば、日本人は連合国が単なる復讐のために裁判を利用していると信じるだろう。その批難は東京裁判にも影響を及ぼしますよ』と。
この殺し文句は、キーナンにはてき面だった。キーナンは復讐裁判と見られることに非常に神経を使っていたからである。
期待しても保証は出来ないと断って、キーナンはとにかくジャバのオランダ当局に長文の電報を打った。
その要旨は“今村、岡崎に対する判決は、連合国の裁判、特に東京裁判に対しても誤解を及ぼすおそれがないように、充分考慮して処理されるように希望する”というものだった。・・・
・・・周知のように、今村、岡崎ともに死刑にはならないで、内地へ服役のため送還された。
しかし今村は自ら望んで、もとの部下達と一緒に服役したいと願いでて、南方の抑留所へ戻っていった。
今村均はそんな人物だったのである。
岡崎清三郎は、後年田中を訪ねて謝意を述べた。・・・・ |
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田中はこの裁判を、肯定はしないが否応なしにくぐらざるを得ない門だと考えていたようである。
でなければ後くされが残り、何よりも陛下の責任問題が尾を引くことになると見ていた。
そのことからいえば、個々の事柄は枝葉末節であった。
この門をくぐるのが嫌ならば、蹶起して占領軍に立ち向かうがいい、そうすれば東京裁判などはふっ飛んでしまう、という彼らしい発言というより放言をした。 |
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その頃、一つの事件が起きた。
木戸担当のローガン弁護士が、東条に対して、『木戸に天皇のご意思にそむくような行いがあったかどうか』とキーナンの尻を引張るような質問をしたところ、東条は開き直って、『いやしくも日本人たるもの、一人といえども陛下のご意思に反して行動するがごとき、不忠の臣はおりません。いわんや文官においておや』と彼らしい大見得を切ってしまった。これにとびついたのがアメリカの特派員である。
アメリカの新聞は“東条、天皇の戦争責任を証言”と書きたてた。
キーナンはびっくりしたがあとの祭りである。
その上にこの報道をたてにとって、ソ連のゴルンスキー検事が、正式に天皇追起訴を提言してキーナンにせまった。
昭和22年の年の瀬も迫ったころである。
田中は自宅で正月を迎えるために、山中湖畔の家に帰っていたが、12月31日にキーナンから---直ちに上京せよ---との電報を受取り、息子の稔を伴って上京し、代々木の今井ハウスに旅装をとくと、すぐ検事団差し回しの車にて三井ハウスのキーナン宿舎に向った。
12月31日の夜のことである。
キーナンは秘書のポール山崎を交えて事の経過を語り、直面している事態を説明した。そして、いよいよ君に働いてもらう場面だ。君は明日東条に会って説得してもらいたい。戦争の責任は自分にあること、天皇の意にそむいて戦さをはじめたと証言して欲しいのだと、東条に本当の武士道を説けというのである。
田中はむりな話だ、おそらく東条は私にだけは会わんだろう、といったが、キーナンは、どうしても説得しろ、の一点張りだった。
翌日は元旦だが、裁判は休んだりはしなかった。
田中はまず畑俊六の弁護人である神崎正義に連絡をとり、東条に会わせてくれと頼んだ。神崎は法廷の控室に田中を案内した。この控室は巣鴨から運ばれてくる被告達が、入廷する前に各自弁護人や家族たちと打合せの出来る場所である。
十中八、九は虎穴に入ったつもりで、田中が東条の傍に近づこうとすると、清瀬一郎が、逢うことはまかりならん、と立ちはだかった。
私事ではない、わけがあるんだ、といっても清瀬は色をなして田中を引止め、頑として寄せつけなかった。
日頃の田中に対する反感が根強いものであったからであろう。
やむなく田中は、直接東条に逢うことを断念せざるを得なかった。
しかし間接にはなしが通じる手があると考えた。
田中が思い当たったのは、松平式武長官である。
松平はながらく木戸の秘書をつとめ、木戸とは特別に深い関係にある。
松平から木戸へ、木戸から東条を口説かせる手があると思いついた。
田中は早速、松平邸を訪ねた。
松平とは面識があったので事の次第を話すと、松平も、それは大変だ、と驚いて出来るだけ努力しようといって、木戸説得の役目を引受けたのである。 |
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この江口氏の記述にある天皇工作の裏話は、若干事実と異なる部分がある。
キーナン氏は父に対して直接、東条氏に会って説得するように依頼したのではなく、誰かが、東条氏に会って、天皇は開戦の意図を持っていなかった、天皇には責任はないということを、いかにして東条氏に再度言明させるか、という問題を深夜まで話し合ったである。
天皇を起訴せず、また証人としても法廷に立たせるようなことはしないということは、昭和21年4月13日付で、アメリカのスウィンクが、天皇制は存続すべきであるとする覚書を国務省に提出し、同年6月18日、キーナン氏自身も公式にワシントンに於て記者会見を行い、天皇を戦犯として起訴する明白な証拠は発見し得なかったことを理由に、天皇ヒロヒトを訴追しないことを決定したと発表したごとく、すでにこの時点において、アメリカングループによる対日占領政策の上から、政治的に決められていたことであった。
そのためにキーナン検事は、裁判が開かれ、法廷内での事が天皇の責任問題に係るが如き証言又は口述を行う可能性のある被告達に対してはあらかじめ、いろいろな手段を使って、天皇に不利になるような表現を行わぬように工作をしており、特に東条氏に対しては、父を通じて畑被告の神崎正義弁護人に東条氏説得の役を依頼した。
その折に、父が神崎弁護人と共に、東条氏に面会をしようとしたときに、江口氏の手記にあるような、清瀬一郎氏をからめての一幕があったのである。
本書及びそれに続く『日本軍閥暗闘史』(中公文庫)などの著書のなかで、父は一貫して敵意ともとれる激しさで東条氏の専横と世界情勢の判断の甘さを個人の性格にまで立ち入って批判しているが、東条氏の主任弁護人の清瀬一郎氏にとって、そのことはがまんできなかったであろう。
「東京裁判においてもう一つ奇怪な証人は、田中隆吉元少将である。この証人は日本人でありながら、検事の求めに応じてどんなことでも証言した。・・・・インド代表判事パール氏の判決文では、田中を『証人業』と批評した」(『秘録 東京裁判』中公文庫)と記してある。
この東条工作については結果的には成功して、1月6日の午後の法廷において、東条氏は、「2、3日前にこの法廷で日本臣民たるも者は何人たりとも天皇の命令に従わないと述べたことは、単に個人的な国民感情を述べたにすぎず、天皇の責任とは別の問題であり、太平洋戦争に関しては、統帥部その他自分をふくめて責任者の進言によって、しぶしぶご同意になったのが実情である」と、キーナン氏の質問に対して答えたことにより、この一大危機は救われた。
この返辞の中で、しぶしぶという表現は、父と松平氏との間でいろいろと打合わせているうちに出て来た言葉であるとのことであったが、とにかくこの工作は終わったのである。
東条氏に対するし訊問が成功のうちに終わった1月6日夜、キーナン検事は突然、今井ハウスに父を訪れた。同氏は父に散歩しようといって車に乗せて明治神宮外苑の絵画館前に案内し、車を下りて外苑の道を歩きながら大変な上機嫌で父の手を握り、礼を述べるとともに、父の天皇工作に関する礼をねぎらったという。
1月15日夜、宮内省の田島侍従長と松平式部長官の二人は、東京裁判における天皇の工作について、父が尽力したことに対して謝意を表する意味をもって、渋谷常盤松のご用邸に招き、一夕を共にした折、非公式であったが、陛下が、今回のことは結構であった、と仰せられたことを両氏から聞かされ大いに感激をしたというが、父の胸中は、歓迎とは別に裁判中における行動から判断すると、きわめて複雑なものがあったのではなかったかと想像される。
この夜、宮中からのご下賜品として、ジョニーウォーカー、レッドラベルのウィスキー1本が、田島侍従長から手渡された。父はこのウィスキーを今井ハウスに持ち帰り、私に対して、これが陛下のご下賜品だ、大事にしまっておくように伝えたが、私の目には、父は非常に疲れているように感じられた。 |
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昭和23年11月12日、東京裁判の判決が下されると、父(田中隆吉)は新聞社の要請により次のような感想を述べている。(192頁)
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「私は一昨年二月十八日(昭和21年2月18日)から今日まで本裁判に協力して来た。
私はこの裁判の間に、裏切者だとか、アメリカのスパイだとか言われたが、自分は確固たる信念を持って動いたと信じており、自身としては陸軍の犯した罪悪の葬式をやった気持ちである。いいかえれば最も戦争を嫌っておられたにもかかわらず、陸軍のために手も足も出なかったお気の毒な天皇の無罪を立証するために全力をそそいだつもりだ。
この私の行動は自分では正しいと信じているが、その善悪の決定は将来の歴史が与えてくれるものと思っている。裏切者といわれようと何とも思わぬし、殺すというものが現れたら、いまなら喜んで死んでみせる。・・・・・
本裁判の間、私は多くのアメリカ人に接する機会を持ったが、なかでもキーナン氏の透徹した日本観、すなわち日本および日本人に接する観察はきわめて正しいものであったと絶大な敬意を表している。
罪の裁きを受けた人々は、もちろんすでに覚悟はしていたことと思うが、その服罪によって、将来の平和確立の理想達成にいささかでも貢献できるとしたら、それで満足すべきであろう。ただし、家族の方々に対してはまことにお気の毒だと思っている」 |
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裁判が終了すると、キーナン氏は父に2冊の本を記念にと贈呈し、アメリカへ帰国した。父もまた、東京裁判に関するすべての仕事を終え、今井ハウスを出ると、鉢山町の家に落着き、息子の私と共に生活をすることになった。
父はこの頃から徐々にノイローゼの傾向が頭をもたげてきたことは事実であった。特にこの期間に判決の下っていた七名の刑の執行が行われ(昭和23年12月23日)、当然来るべきものが来たとはいうものの、このニュースを聞いた父の胸中、いかなる感慨が去来したか察するすべもないが、きわめて複雑なものであったことは想像にかたくない。その七名の中に、恩顧の深い元上官、板垣征四郎が含まれていたことを思うと、なおさらである。
同じ頃に、巣鴨を出所した、児玉与志夫氏(ママ)が出所の御礼の挨拶に鉢山の家へ訪ねて来た折にも、同氏から巣鴨プリズンにおける各被告の生活の様子などをこまごまと聞き、同氏が辞去したあと一人静かに思いにふけっていたこともあった。
またこの年、単身故郷島根県へ墓参のため帰郷し、親しく先祖代々の墓を参詣したあと、親類縁者と会合をもって昔話しにふけったという。
昭和24年の夏の初め、父は山中文夫の偽名で慶応病院付属病院に入院し、3週間の治療を受けた。
退院し、山中湖畔へ帰ったが、散歩などの外出もせず一室に閉じこもり、ひたすらに物思いにふけるという生活が続いた。
私たち家族の者は、父に万一のことが起こらないよう十分注意していたが、9月16日(昭和24年)の朝、母は寝室の血の海のようになったふとんの上で、息もたえだえの父を発見した。幸い一命をとりとめたが、恢復までまでに八ヶ月の入院生活を要した。
自室には、遺書と思われるものが多数書き残されてあった。それらによると、東京裁判終了後、自殺決行に至る間、いかに大きな苦悩を抱いて楽しまざる日々をおくっていたかがよくわかるのである。
その後20年に近い歳月を社会と断絶し、自ら苦しみを背負って生きていたが、昭和47年6月5日、東京・南青山の私の家で直腸ガンにより死去した。
78歳であった。 |
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