『天皇独白録』発表される

文藝春秋 1990年12月号

天皇独白録作成の目的に関して
『文芸春秋12月号』 文芸春秋編集部


文藝春秋 1990年12月号


それにしても、なんのためにこの生々しい記録がつくられたのか、それがどう使われたのかということについてはなお不明な点が多い。

昭和20年初頭から政府、軍の要人は戦犯として次々に逮捕され、翌年(昭和21年4月28日には、東条英樹元首相以下のA級戦犯28名が起訴された。
極東国際軍事法廷東京裁判の開幕である。

一部には昭和天皇をも戦犯として裁くべし、という強行論もあり、天皇退位も真剣に検討された。
天皇

実はマッカーサー元帥は、それより前の(昭和21年1月25日に、長文の最終結論をワシントンへ送り、昭和天皇を戦犯指名から除外することに決定していた。
しかし先の「側近日誌」の昭和21年2月25日付記述には次のような箇所がある。

「ご文庫にて拝謁。(略)戦犯審判開始が漸次遅るる訳は、マッカーサー司令部に甲乙に議論のあるゆえ、(略)側近としても、陛下のご行動につき、手記的なものを用意する必要無きやにつきご下問あり」

『独白録』は天皇無罪論を補強するため、天皇ご自身からお話を伺う機会を持ったものと考えられる。(

あるいは逆に、天皇陛下自らが昭和を回想し、後世に記録を止どめようとのご熱意を抱かれたとも推察される(※ NHKスペシャル 『御前会議』 原本)
他から強いられたとは思えない率直なお話ぶりから、そのお気持ちが伺える。あまりにも率直に、といってもいい。それだけにこの上なく貴重な昭和史の元資料となっている。

いずれにせよこの「独白録」がいかなる目的の基に作成されたものであるかは昭和史研究家の分析を待たねばなるまい。(文芸春秋編集部  まえがきに編者注 )
 松岡洋介はヒトラーに買収されたのでは云々・・・ショッキングな記録あり


文藝春秋 1990年12月号





文芸春秋 2003年7月号
昭和天皇
国民への謝罪詔書草稿 全文掲載
朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ズ
昭和23年ごろ
    当時
    天皇退位論
    東京裁判判決 昭和23年11月













 「朕、即位以来茲ニ二十有余年、夙夜(しゅくや)祖宗ト萬姓トニ背カンコトヲ恐レ、自ラ之レ勉メタレドモ、勢ノ趨ク所能()ク支フルナク、先ニ善隣ノ誼(よしみ)ヲ失ヒ、延(ひい)テ事ヲ列強トと構ヘ遂ニ悲痛ナル敗戦ニ終リ、惨苛今日ノ甚(はなはだ)シキニ至ル」

 「屍ヲ戦場ニ暴(さら)シ、命ヲ職域ニ致シタルモノ算ナク、思フテ其人及遺族ニ及ブ時寔(まこと)ニちゅう怛ノ情禁ズル能(あた)ハズ。戦傷ヲ負ヒ戦災ヲ被リ或ハ身ヲ異域ニ留メラレ、産ヲ外地ニ失ヒタルモノ亦数フベカラズ。剰(あまつさ)ヘ一般産業ノ不振、諸價ノ昂騰、衣食住ノ窮迫等ニヨル億兆塗炭ノ困苦ハ誠ニ國家未曾有ノ災殃(さいおう)ト云フベク、静ニ之ヲ念フ時憂心妬クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧()ズ」

 「然リト雖(いえど)モ方今、稀有ノ世変ニ際會シ天下猶(なお)騒然タリ。身ヲ正シウシ己リヲ潔クスルニ急ニシテ國家百年ノ憂ヲ忘レ一日ノ安キヲ偸(ぬす)ムガ如キハ真ニ躬()ヲ責ムル所以ニアラズ。之ヲ内外各般ノ情勢ニ稽(かんが)ヘ敢エテ挺身時艱(じかん)ニ當リ、徳ヲ修メテ禍ヲ嫁シ、善ヲ行ッテって殃(わざわい)ヲ攘(はら)ヒ、誓ッテ國運ノ再建、國民ノ康福ニ寄與シ以テ祖宗及萬姓ニ謝セントス。全國民亦朕ノ意ヲ諒トシ中外ノ形勢ヲ察シ同心協力各ソノ天職ヲ盡シ以テ非常ノ時局ヲ克服し國威を恢弘(かいこう)センコトヲ庶ヒ願フ」

【現代語訳】

「即位以来二十余年、始祖以来の代々の天皇と国民に背くことのないよう日夜勉めてきたたが、時の流れを変えることができず、善隣との友好を失い、列強と戦い、遂に悲痛なる敗戦に終り、今日の如き甚しい惨禍を招くに至った。」

「屍を戦場に暴し、また職場で命を落とした人々は数えようもなく、死者とその遺族に思いを致すとき、真に心痛の思いを禁じ得ない。また戦傷を負い、戦災を被り、あるいは異国の地に抑留された人達や外地で財産を失った人々も数え切れない。その上一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住の窮迫などによる数えきれないほど多くの人々の塗炭の苦しみは、まさに国家未曾有の災いというべきである。静にこれらを考えるとき、心配の炎は身を灼くようである。」

「しかしながら現今は稀有の激変期にあり、世情は騒然としている。自分一人を正しく潔くすることを急ぐあまり、国家百年の憂を忘れ目先の安らかさを求めることは、真に責任をとることにはならないと考える。内外の事情を鑑み、敢えて身を挺して艱難に立向かい、徳行を積み禍を払って、国運の再建と国民の幸福に尽くすことにより祖宗と国民に謝罪しようと思う。全国民もまた、朕の意を諒とし、内外の形勢を察し、心を合わせて協力し、それぞれの天職に尽くすことによってこの非常時を克服し国威をひろめることを心より願う。」



文芸春秋 2007年4月号

衝撃の新発見
「小倉侍従日記」
昭和天皇 戦時下の肉声

                        はじめに

 昭和天皇に関する貴重な史料がまた発掘され、昭和史解明のための重要な文献が加わった。このたび文芸春秋が掲載するこの「小倉庫次侍従日記」である。「宮内省」とある用箋全六百十七枚に記された、この膨大な日記には、ノモンハン事件直前の昭和十四年五月三日から敗戦の二十年八月十五日までの、まさに戦時下の天皇″の日々が描かれている。
 これまでにも『昭和天皇独白録』をはじめ、内大臣の立場から記された『木戸幸一日記』、侍従の日記として『徳川義寛終戦日記』『入江相政日記』などがあるが、それらは昭和天皇の政治的側面からの史料として重要視されてきた。とくに戦争指導の面からとりあげられることが多かった。

 新発見の「小倉侍従日記」は、これらの日記に劣らず、政治的、軍事的な発言も随所にみられる。なかんずく昭和十七年十二月十一日、伊勢神宮参拝のために泊った京都御所の侍従詰め所に天皇はわざわざやってくる。小倉ら侍従及び侍従武官に、一時間四十七分にわたって語った戦争観は生々しい。率直な気持の吐露であったろう。

 この日記のもう一つの特徴は、戦争を国民とともに戦っていたころの、皇室のありのままの姿が残されていることである。皇太子の教育を心配し、皇后の健康を気づかい、皇后とときには「衝突」する“父として夫として”の天皇がいる、といっていいであろう。言い換えれば、『天皇独白録』の戦後の述懐とは違って、戦争を戦っているそのときの天皇の肉声がそのまま記録されている。そこがまことに興味深い。

 筆記した小倉庫次は、明治三十二(一八九九)年、千葉県生まれ、昭和天皇より二つ年長のいわば同世代といえる。旧制八高から東京帝大法学部法律学科(専攻憲法)を出て、十一年間ほど東京市政調査会研究員を務める。そして昭和九年に、宮内省(現宮内庁)事務官に転じる。ここで宮内書記官式部官、侍従職経理課長兼大勝寮庶務課長などを歴任したのち、十四年五月に侍従兼皇后宮事務官に任ぜられる。

 この略歴からも窺われるように、この人は戦前において最初の平民出身の侍従であった。それだけに、いわゆる宮中のさまざまなしきたりや伝統にとらわれない、客観的なものの見方のできる人であったのであろう。日記には秘事をも隠さずにあからさまに記し、自分の感想を述べているところがある。嬉しい人が戦時下の宮中にいたものである。

 小倉侍従は侍従職庶務課長として、各大臣や陸海統帥部総長や侍従武官長などの天皇への拝謁の時間調整を担当しており、日記にはたとえば、「米内海相(1・30−1・45)」といった事務的記述が多い。それらもまたある意味では貴重な記録ではあるけれども、今回はほとんど割愛し、日記全文の掲載は不可能であるので、編集部で適宜抜粋した。また、日記はほぼ旧字、片カナで書かれている。これを読者の便を考えて常用漢字、平かなと直した。半藤の(注)もまたこれに準じた。句読点、ルビも適宜補い、〔 〕は補注、( )は原文ママであることをおことわりする。 
(半藤記)
昭和十四年 私記
 ノモンハン事件に忿怒
 絶対の信頼を置けるものがいない
 白鳥大使に会いたくない
 義宮の移居問題

昭和十五年 私記
 斉藤隆夫の反戦演説
 満州皇帝に剣を
 米内内閣総辞職
 松岡外相の長時間上奏
 日独伊三国同盟の締結
 紀元二千六百年式典
 最後の元老、死す

昭和十六年
 泰・仏印紛争調停
 松岡、スターリンと手を結ぶ
 「くらげ」の大発見
 独ソ戦はじまる
 松岡更送、第三次近衛内閣
 難航するアメリカとの交渉
 皇太子の避難場所
 近衛辞職、東条に大命降下
 開戦決定の御前会議
 太平洋戦争、開戦す
昭和十七年
 シンガポール攻略
 帝都空襲にあわてふためく
 隠されたミッドウェイ海戦敗北
 「連合艦隊にでも行き、
       激励したき気持ちである」
 米軍、ガダルカナル島上陸
 天皇が京都で語った戦争観
 大晦日の大本営会議

昭和十八年
 山本五十六の死
 眠れぬ夜
 平泉澄への疑念

昭和十九年
 戦局いよいよ傾く
 高松宮との大議論
 ついに東条内閣総辞職
 神風特攻隊

昭和二十年
 天皇、焼け跡の東京を歩く
 宮城大火
 侍従最後の日々
 松代大本営へ