| ミッドウェー海戦 昭和17年6月5日〜6日(空母4隻喪失)〜7日
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| ミッドウェー海戦 太平洋海戦と経営戦略ミッドウェー関連 小林宏(産業研究所所長) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
| ミッドウェー海戦の伏線 ドーリトル東京初空襲(昭和17年4月18日) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
異色の秀才・変人参謀・黒島亀人の作成した複雑・巧緻のミッドウェー作戦 ![]()
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| ・ 近代戦は、凡将を前提とすべし 太平洋戦争初期の連合艦隊の参謀陣は、
ミッドウェー作戦は、これらの参謀陣によって立案計画された。にもかかわらず、この大作戦は、惨憺たる失敗に終わったことは、すでに見たとおりである。 その原因の一つには、作戦そのものが複雑すぎたことがある。 前にのべたように、ミッドウェー島攻撃とその占領、アメリカ空母のおびきだしと、その撃滅、アリユーンャン方面での陽動作戦 ─── ざっとこんなぐあいであった。 「近代戦は凡将を前提とすべし。」と言われている。近代戦は、大量の兵力を投入し、多方面にわたって行なわれるいくさである。とくに航空戦が主体となる場合はなおのことである。 そこで、実戦には多数の指揮官が必要であるが、それらのすべての指揮官に、むかしのようなナポレオンや秀吉のようないくさの天才を求めることは困難である。そればかりでなく、そのような天才や知将が一人や二人いたところで、まにあうものでもない。自然、指揮官の級が小粒となり、知将より凡将のほうが多くなる。 そこで、最高統帥部にあって作戦計画を立案するものは、その作戦が、どんな凡将でも、作戦現場において迷わず遂行できるように、計画を単純明解なものにすることがたいせつである。つまり、前線の凡将の判断を迷わせるような、複雑精緻にすぎる計画は、できるだけさけることが必要である。 「凡将を前提にすべし。」とはこの意味である。 ところが、日本海軍の場合、連合艦隊の参謀ともなれば、それこそ海軍部内よりぬきの秀才、エリートを網羅している。連合艦隊参謀といえば、泣く子も然るほどの権威と実力を持っていた。 その反面、連合艦隊のもとにあって、現地で各作戦を担当した各艦隊指揮官となると、年功序列制度による任用のため、かならずしも第一級のベテラン、秀才を配したとはいえないふしが多くあった。勇将であっても、知将とはいえない提督(西村艦隊の西村中将)や、凡将を通りこして怯将のレッテルさえはられた無能の提督(第五艦隊の細萱中将、第四艦隊の井上中将、スラバヤ沖の高木少将など)さえふくまれていた。 このため、作戦はりっぱであったが、かんじんの持駒がついて行けないという場面がしばしばあった。 秀才型作戦計画と各担当指揮官の質とのアンバランス。このジレンマが最高度にしっぼを出したのが、ミッドウエー作戦であった。 つまり、この作戦に参加した各部隊の多目的なかけもち計画がかんじんの戦闘場面で、指揮官をして、二つの任務のうち、いったいどの任務に従うべきかの判断に苦しませたわけである。 迷ったのは、機動部隊の南雲中将ばかりではない。 攻略部隊の近藤信竹中将も栗田中将も、北方部隊指揮官角田覚治中将も迷ったのであり、驚くべきことは、総指揮官の山本大将さえも迷ってしまった(大和の電波管制、夜戦についての態度決定など)。 もし、ミッドウエー作戦が、せめても、複雑巧緻なものでなかったら、その経過はずいぶんちがったものになっていたはずだ。 ミッドウェーに、上陸するなら上陸する。 敵をおびきだしてたたくなら、この一点に集中する。 そのほかのややこしいこと、こみいったことは、いっさいやらない。 つまり、どんな優柔不断な凡将でも、目をつぶって計画の実施に没入できるようなものであるべきであった。 |
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| ミッドウェーの教訓 太平洋海戦と経営戦略 小林宏著 (産業研究所所長) 教訓 | ||||||||||||||
・・・この日(昭和十七年六月四日未明)ミッドウェー北西三百八十キロに忍びよった南雲忠一提督の率いる第一機動部隊は、日の出四十分まえに、ミッドウェー空襲第一波百八機を、四空母からいっせいに発艦させた。 第一波の出撃が終わるや、ただちに四空母の甲板の上では、第二次攻撃隊を準備、いつでも飛びだせる体制にはいった。こんどは、陸上でなく、とうぜん現われるであろうアメリカの空母艦隊に対する攻撃隊である。だから、百八機の飛行機のうち三十六機は、爆弾でなく魚雷を積んでいた。このほうが、敵艦攻撃には効率が高いからである。 ところが、予期する敵空母はなかなか現われない。味方の索敵機(偵察機)からも、なんともいってこない。ほんとうにいないのかもしれないと思いだした時に、第一次攻撃隊の友永大尉から、「ミッドウェー島をもう一度たたく必要がある。(第二次攻撃の要あり)」という電報がはいった。 友永大尉は、せっかくはりつめた気持でミッドウェー島にのりこんだものの、敵はもぬけのからで、目ざす敵機の影はなく、落とす爆弾は、いたずらにからの格納庫を破壊しただけで、ものたりないこといいようがない。そこて、もう一度攻撃をする必要があると思った。そのころには、どこかに避難していた敵機も飛行場にもどっているかもしれない。そこをたたこうというわけである。 友永電報を手にした南雲司令長官は、しばらく考えたすえ、ミッドウエー島を再攻撃することに決定した。むろん、敵艦隊は付近にいないという前提のもとにである。 だが、ミッドウェー島を攻撃するとなると、攻撃隊の装備を魚雷から陸用爆弾に積みかえなけれはならない。これはそう簡単にはいかない。どんなに早くとも小一時問はかかる。 急げ急げで、ようやく飛行機の整備が終り、あわや発艦というとにになって、味方索敵機から、「敵空母見ゆ」の急電が入った。 「それ出た。」 「やっぱりいた。」 赤城の艦上は一瞬凝然となった。 爆弾攻撃か、魚雷攻撃か アメリカ空母が現われた以上、もはやミッドウエー島の再攻撃は考えられない。打つ手は一つ、全力をあげて、アメリカ空母部隊を攻撃するばかりてある。 ところで、ここに問題があった。甲板上にならんでいる攻撃機は陸用爆弾を積んでいる。それをこのまま即刻発艦させるか。それとも、またここで魚雷ととりかえ正攻法で攻撃するか。 前者をとれば大きな効果は期待できないが、とにかく先手がとれる。後者をとれば効果の点では申し分ないが、準備に時間がかかる。南雲司令長官は、ここで重大な判断の分岐点に立たされたわけである。 いっぽう飛竜に座乗して第二航空戦隊を指揮していた海軍少将山口多聞は、敵発見と同時に赤城に信号した。 「攻撃隊ただちに発艦の要ありと認む。」 沈思しばらくののち、南雲長官は、ついに運命の決定を行なった。 魚雷による正攻法を選んだのである。 ふたたび爆弾を魚雷に。また、時間がかかる。急げ急げのうちに、敵発見から一時間半もたって、ようやく準備完了。ただちに各艦は、飛行機を発艦させるため、風に向かってつっぱしる。 午前七時二十四分。発艦はじめの号令。飛行長が、白旗を振る。先頭の第一機が、ぶーんと飛び上がる。整列して見送る整備員がいっせいに帽子を振る。その瞬間、マストの上から見張員の、怪鳥の叫びのような声がふってきた。 「急降下爆撃機!」 艦内が飛行機発艦準備に気をとられていたそのスキをねらって、忍びよったアメリカの急降下爆撃機が、赤城をめがけて逆落としにつっこんできたのだ。 対空砲火もまにあわない。 爆弾投下。甲板上の飛行機がたちまちもえ上がり、火の手は甲板上をおおい、艦の内部でも誘爆がはじまる。同じとき、同じような運命に、加賀も蒼竜も見まわれていた。 運命の分岐点はどこにあったか。 いうまでもなく、南雲司令長官が、拙速か、正攻かの二者折一の決定をまちがえたことにある。この場合は、何がなんでも先制攻撃をかけ、たとえ一発でもアメリカ空将の甲板に爆弾を命中させ、アメリカの飛行機が飛び立てないようにすべきであった。 正攻法で沈めるのは、そのあとからでもできたのである。 なお、この本では、ミッドウエー海戦をしはしば引きあいに出すが、それというのも、この重大な海戦の敗因のひとつひとつに、多くの貴重な教訓がふくまれているからである。 ・
「南雲さんならしかたないや」 太平洋戦争努頭をかざる真珠湾奇襲攻撃は、南雲忠一中将の率いる第一航空艦隊によって行なわれた。この奇襲は、国民に向かっては大勝利として報道されたが、作戦計画をたてた軍令部や連合艦隊司令部にとっては、不満な点があった。それは、第一航空艦隊が第一次の攻撃の成功に満足して、敵の狼狽に乗じて第二次、第三次と反復攻撃、だめ押し攻撃をしなかったことである。 後方のものばかりではない。南雲中将が、午前十時三十分、機動部隊に対して、反転北上を命じたとき、はりきっていた空母のパイロットたちは、切歯拒腕したものである。とりわけ摩下の第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、第二次攻撃を熱心に主張したがいれられず、ついに「南雲さんならしかたがないや。」とあきらめてしまった。 この不信が、のちのミッドウエー作戦において、「第二次攻撃の必要ありと認む。」というだめ押しの友永電報になり、「敵空母見ゆ。」にさいして、山口少将から、「攻撃隊ただちに発艦の要ありと認む。」という下からのハッパとなってあらわれた。 要するに、「南雲さんは頼りない。」という印象が真珠湾以来部下の間でもっばらだったのである。 では、なぜ重要な作戦にこのような頼りない指揮官が生まれたのか。 それは、日本の海軍に、年功序列、つまり先任、後任によって、指揮官をきめるという悪習があったからである。 南雲中将は、この悪習の犠牲者のひとりてあった。 彼は、元来が水雷科出身で、航空作戦ではしろうとに近い。 このようなしろうとでも、長老各であるというわけで、当時最大の花形、第一航空艦隊の司令長官にされてしまった。これでは、もぐらに蝶になれというようなもので、うまくいくはずがない。 こういう部隊の指揮官には、山口多聞少将とか、大西滝治郎(当時少将)といった、航空生えぬきのベテランをもってくるべきである。ところがこういう連中がまだ若いというわけで、司令長官にしなかった。 ミッドウェーで、南雲中将が魚雷か爆弾かで迷い、魚雷に積みかえるという最悪の決定を行なったのも、ひとつにはこのことが原因である。南雲中将は、育ちが育ちだけに、魚雷については自信がもてるが、爆弾には自信がもてなかったからである。 同じように、栗田中将がレイテ突入をやめて引き返したのも(※)、栗田中将は、もともと通信畑の出身で、海上にあって大艦隊を率いるということは、太平洋戦中はともかく、それ以前には、あまり経験がなかったからである。
. 山本五十六出撃す ミッドウエー作戦は、すでにのべたように、四つの部隊によって行なわれた。この作戦で連合艦隊司令長官山本五十六大将は、みずから大和を旗艦とする主力部隊を率いて、ミッドウェー救援にかけつけてくるアメリカ艦隊を待ち伏せるとともに、三ルートにまたがる三つの部隊に対して統合指揮をとった。 このため、主力部隊は、三つのルートのどちらにもにらみのきく扇の要のような場所、ミッドウェーの北西方千百キロの地点に位置した。作戦の失敗にはいくつかの原因があるが、ミッドウェーで日本が敗れた最大の原因は、アメリカが日本の意図を知りつくして、厳重な待ち伏せ体制をとっていたのに、こちらの前衛部隊が、相手は知らないはずと一方的にきめこんで、のこのこ出ていったことである。
これがミッドウエー空襲にあたった第一航空艦隊の、攻撃寸前までの判断であった。まことにのんきなものである。 だが、これは、第一航空艦隊司令部だけの罪ではない。 なぜならば、第一航空艦隊の司令部は、はんとうにそう信じていたのである。 旗艦空母赤城の通信設備が貧弱で、ハワイ方面のアメリカ艦隊の電波電信を傍受し、敵の行動を察知するのに不適当であったからである。 つまり、敵情を知ろうにも、技術的にめくらであったわけだ。 中途半端な位置がたたる ところが、戦艦大和の通信施設は強力である。 ハワイ方面の敵の軍艦が発信する電波は、細大もらさずキャッチできる。 それによると、五月三十日ごろには、かなりの艦隊が、ハワイからミッドウェー方面に移動しつつあることが推定された。すなわち、山本司令長官は、敵が待ち伏せしているかもしれないということを、うすうす感じていたのである。 にもかかわらず、この重大なニュースを、かんじんの第一航空艦隊に通知しなかった。 おそらく、赤城でもこの電波をキャッチしているだろうと思ったことと、主力部隊の位置を秘密にするために、電波の発信を控えたためである。 もし、このとき大和が、少々の危険をおかしてでも、敵が待ち伏せしているかもしれないという情報を第一航空艦隊に通知していたら、第一航空艦隊の楽観主義も一変し、その後の作戦の様相も、根本的にちがったものになっていたであろう。 この意味で、かんじんのときに大和がだんまりをきめこんだことは、ミッドウェー海戦の敗因につながる大きなミステークであったと言わねはならない。 では、どうしたら、このミスをさけられたか。 それは、山本長官と大和が、洋上に出てこずに、瀬戸内海の泊地でるす番をしていればよかったのである。 そうすれば、大和は、敵に位置を知られるなどという心配もなく、自由にどこにでも電波を出し、自在に命令し、情報を伝えることができたはずである。それを、なまじ洋上出撃などと気負いこんだばかりに、かんじんの口がきけなくなった。 思うに、山本司令長官が陥ったこのジレンマは、彼が日本海海戦における東郷大将をまねようとしたため起こったものといえる。 戦艦三笠の艦上で、双眼鏡と軍刀を手にバルチック艦隊をにらみ、陣頭指揮する勇ましい東郷司令長官の姿は、由来、帝国海軍の司令官たるべきものの理想像であった。だが、これは明治の日本海海戦の姿である。 昭和の太平洋戦争では、同じ海軍の戦闘でも、その様式、ものの考え方において大きく変化している。 山本司令長官は、その時代の変化を無視して、東郷をまねようとした。 しかも、ミッドウェー北西千百キロといえば、最前線からは遠すぎ、瀬戸内海よりははるかに危険、きわめて中途はんぱなところであった。 この中途はんぱな東郷気取りが、ミッドウェー海戦を悲劇の海戦たらしめた根本的な原因といえる。 ナポレオンは、「戦争は位置のビジネスである。」と喝破している。 同じように、戦争は指揮官場所のビジネスである。 むかしから、いくさの指揮官は秀吉でも家康でも、戦況がもっともよく見え、命令を自由に下せる場所に床几をすえて全軍を指揮した。現場をうろちょろしたり、勇ましいところをみせるために、兵隊なみの突撃に加わったりはしない。 「戦闘の外部に立っていては、なにものも見ることができないし、その中に突入することは、いっさいを忘れさせる個人的経験によって支配されることであった。これこそ戦争のもっとも残酷な特色の一つであった。」(チャーチル著『世界大戦』より) これは、チャーチルが、第一次大戦ジュトランド海戦の直後にのべた感想である。 |
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名将スプルーアンス提督、登場のきっかけ |
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● 会長ブームの功罪 代表権を持つ会長 ゼネラル・ダイナミックス ホプキンス会長 田辺製薬社長 田辺五兵衛 平林忠雄専務に代表権を委譲の教訓 東洋レーヨン 田代会長 松下電器 松下会長 日興證券 遠山会長・・ |
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