太平洋海戦と経営戦略 小林宏(産業研究所所長)戦艦大和
  史上最大のビジネス・ゲームから学ぶもの.. 目次へ
光文社 カッパ・ビジネス 昭和38年10月25日発行 250円
写真挿入・編者

本ページは小林先生の御了解の下に作成したものであります
小林宏先生のHP
昭和38年に発行された本書は太平洋戦争における日本海軍の敗因を科学的に、企業戦略になぞらえて書かれたもので、いつも座右にありました。
パソコンを憶えてから、なんとかWEBで残しておきたいと思い、著者の消息もわからぬまま私的に作成いたしましたが、最新兵器・インターネットで検索したところ、先生のHPに行き当たりました。そこで小林先生の許可を問い合わせたところ、喜んで承諾とのお返事を頂き、アップしたものです。現在も元気にご活躍されております。


企業はなにがなんでも勝たねばならぬ。だが竹槍的突貫精神では通用しない。軍艦や飛行機を駆使する海戦も同じである。必勝の闘志は、艦長の資質、一糸乱れぬ管理と組織、綿密な計画、そして高度の技術を通して、はじめて戦力となる。

このきびしさは、陸戦にはない。海戦が近代工業とすれば、陸戦は農業的である。科学の粋を集めた設備と複雑な機構を持つ今日の企業にとって、海戦は無数の教訓を含んでいるのだ。

中略

・・・この本では経営のモデルを旧日本海軍に求め、戦略のシュミレーション(模擬)として、太平洋海戦というケースをとった。それはなぜだろうか。

日本の海軍は文字どおり日本のエリートであった。技術も人材も、ベストのものを集めた。
さらに投資も集中されていた。
戦艦大和一隻の建造費は、今日の価格で千三百億円にのぼる。八幡製鉄の戸畑製作所の建設費が千五百億円前後であるから、大和一隻はほぼ戸畑に近いわけだ。
こんな大艦を二隻もつくった。
そのほか、太平洋戦争中にくりだされた三百八十余隻の二百万トン。これを現在の価格に換算したら、じつに四兆円という膨大な金額になる(ちなみに、昭和三十八年現在、東京証券取引所の第一部、第二部に上場している会社の資本金合計は、三兆七千億円である)。

その日本海軍が負けたのである。
たんなる物量のたんなる物量の差によるだけではない。戦略において、ものの考えかたにおいて完敗したのである。
もちろん、いくさに負けたということなら、海軍だけではない、陸軍も負けた。だが、企業にとっての比較を考える場合は、どうしても海軍をモデルとしなければならないのだ。

海戦は、軍艦や飛行機という高度のメカニズムを駆使する。そこでは、行動における計画、指揮、管理のいっさいが、科学的な機械計算によって行なわれる。そこに少しでも乱れが生じれば、それは敗北を意味する。
また、海戦は、広い海の上で、敵と味方の軌跡が一点でぶつかったときに行なわれる。チャンスは、一度逃がしたら永遠にとりもどせないのである。
だが陸の上のいくさには、こういうきびしさはない。海戦が近代工業的ないくさとすれば、陸戦は農業的ないくさなのである。
また、海戦では、戦闘詳報による、くわしい記録が残る。だから、後になって、「この一手が敗因」ということが、客観的に判断できるのである。
日本海軍と同じく、科学技術の粋を集め、巨大な規模にふくれあがった今日の大企業は、海戦から無数の教訓をくみとることができる。・・・・
昭和三十八年十月十日 小林宏 (まえがきより抜粋)
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目      次.
太平洋戦争は、経営戦略の宝庫である (はミッドウェー海戦関連)

第一次ソロモン海戦 リーダーシップ 白浪特攻隊 調査部
 指揮官、先頭に立ってなぐりこみ  中央が情報を軽視
ミッドウェー海戦 意思決定 ミッドウェー海戦 ライン内スタッフ
 第二次攻撃の要ありと認む  適当でなかった前線の参謀配置
ジュトランド海戦 意思決定 艦船職員服務規定 ライン内スタッフ
 第三の道に気づかなかったジェリコー  軍独特の「掌・・・・長」制度
サマール島沖海戦 意思決定 ハワイ作戦 戦略と戦術
 輸送船より空母をねらったほうが、カッコいい  連戦連勝の裏にあるもの
ハワイ海戦 経営者人事 日本海海戦 ゲームの理論 
 「南雲さんならしかたないや  両将の意思と想像がピシャリと一致
ミッドウェー海戦 マリアナ沖海戦 海外戦略
 名将スプルーアンス提督、登場のきっかけ  アウトレンジと眼下の敵
ミッドウェー海戦 総合管理 伊藤正徳著『大海軍を想う』より 投資編
 山本五十六出撃す  大艦巨砲主義の根拠
スラバヤ沖海戦 計数管理 第三次ソロモン海戦 投資編
 逃げ腰の指揮官  悲劇の八・八艦隊
ミッドウェー海戦 コミニュケーション 海上輸送護衛用の軽空母 投資編
 最上と三隈の衝突  空母優先のアメリカの拡充計画
ビスマルク撃沈作戦 コミニュケーション 潜水艦作戦 商品化計画
 くいさがるサフォーク  役に立たなかった虎の子潜水
第三次ソロモン海戦 コミニュケーション 航空戦艦 商品化計画
 戦艦比叡の悲劇  役に立たなかった航空戦艦
レイテ沖海戦 協同と調整 レイテ沖海戦 機構改革 
 行けばいいんだろう  あだとなった主砲発砲
ミッドウェー海戦 社長室 ミッドウェー海戦 経営の多角化
 近代戦は凡将を前提とせよ  主力は時代とともに変わる
吉田俊雄著 『海戦』より 総務部 珊瑚海海戦 経営の多角化
 独特の内務科制度  兵術は分散と集中の技術である
ミッドウェー海戦 調査部 東京への途作戦 事業部制
 一段索敵と二段索敵  機動部隊産みの親は日本
 近代戦 太平洋戦争と経営戦略 参考文献1

1 経営者編
(1) リーダーシップ

昭和十七年八月九日、三川軍一中将指揮する第八艦隊は、夜陰にまぎれて、ガダルカナルにしのびこんだ。全艦隊一直線、さっと突入して放火をあびせるや、すぐUターンして、風のごとく引き揚げた。

この三川中将の単純明快な指揮ぶりによって、わずか八隻、しかも寄せあつめの弱い艦隊にもかかわらず、優勢なアメリカ艦隊に圧勝した。

第一次ソロモン海戦
 指揮官、先頭に立ってなぐりこみ
 リーダーシップは単純明快が第一条件


  日本のリーダーシップ型経営者
  リーダーシップに成功するカギはなにか
  なぜ、会議が多いか

   川崎製鉄 川崎重工業 東洋レーヨン 旭硝子 日本板硝子 鐘紡 
   田辺製薬 尼崎製鉄 大丸 帝人 倉敷レイヨン ダイキン工業 
   本田技研 ソニー
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(2) 意思決定

「敵空母見ゆ。」の急報に接した第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将は、空母赤城の艦橋で、一瞬凝然となった。甲板上の攻撃機は、みな陸用爆弾を積んで待機している。

このまま、先制攻撃をかけるか。それとも、魚雷に積みかえて正攻法を取るか。沈思しばらく、南雲中将は、運命の決定を行なった。
「魚雷による攻撃!」--- そして、この決定が赤城ほか三隻の空母全滅の一つの原因となった。

ミッドウェー海戦
第二次攻撃の要ありと認む
この作戦は、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将直率のもとに、四つの部隊によっておこなわれた。すなわち、第一航空艦隊(空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍を基幹とする精鋭空母部隊)は、前衛部隊(南雲部隊)としてミッドウェー島を空襲するとともに、アメリカ空母艦隊をおびきだす。戦艦大和以下の第一艦隊は、主力部隊(山本部隊高須部隊よりなる)として後方海面で、出て来る敵艦隊を待ち伏せ、これを撃滅する。
同時に第二艦隊(田中、栗田、近藤の各部隊)は、攻略部隊として、輸送船団を率いてミッドウェー島への上陸作戦を行う。第二航空艦隊(細萓、大森、角田の各部隊)は、北方アリューシャン列島ダッチハーバーを奇襲し、アメリカ軍を北方へ牽制する。

文字通り、日本海軍の最盛期のベストメンバーを投入した、雄渾なオールスター戦であった。しかし、作戦計画上の手ちがい、統一指揮の欠陥、そして、決定的なエラーの続出のため、日本側の大敗に終わった・・・・・

・・・この日(昭和十七年六月四日未明)ミッドウェー北西三百八十キロに忍びよった南雲忠一提督の率いる第一機動部隊は、日の出四十分まえに、ミッドウェー空襲第一波百八機を、四空母からいっせいに発艦させた。

第一波の出撃が終わるや、ただちに四空母の甲板の上では、第二次攻撃隊を準備、いつでも飛びだせる体制にはいった。こんどは、陸上でなく、とうぜん現われるであろうアメリカの空母艦隊に対する攻撃隊である。だから、百八機の飛行機のうち三十六機は、爆弾でなく魚雷を積んでいた。このほうが、敵艦攻撃には効率が高いからである。

ところが、予期する敵空母はなかなか現われない。味方の索敵機(偵察機)からも、なんともいってこない。ほんとうにいないのかもしれないと思いだした時に、第一次攻撃隊の友永大尉から、「ミッドウェー島をもう一度たたく必要がある。」という電報がはいった。
友永大尉は、せっかくはりつめた気持でミッドウェー島にのりこんだものの、敵はもぬけのからで、目ざす敵機の影はなく、落とす爆弾は、いたずらにからの格納庫を破壊しただけで、ものたりないこといいようがない。そこて、もう一度攻撃をする必要があると思った。そのころには、どこかに避難していた敵機も飛行場にもどっているかもしれない。そこをたたこうというわけである。

友永電報を手にした南雲司令長官は、しばらく考えたすえ、ミッドウエー島を再攻撃することに決定した。むろん、敵艦隊は付近にいないという前提のもとにである。
だが、ミッドウユー島を攻撃するとなると、攻撃隊の装備を魚富から陸用爆弾に積みかえなけれはならない。これはそう簡単にはいかない。どんなに早くとも小一時問はかかる。
急げ急げで、ようやく飛行機の整備が終り、あわや発艦というとにになって、味方索敵機から、「敵空母見ゆ」の急電が入った。
「それ出た。」
「やっぱりいた。」
赤城の艦上は一瞬凝然となった。

爆弾攻撃か、魚雷攻撃か
アメリカ空母が現われた以上、もはやミッドウエー島の再攻撃は考えられない。打つ手は一つ、全力をあげて、アメリカ空母部隊を攻撃するばかりてある。
 ところで、ここに問題があった。甲板上にならんでいる攻撃機は陸用爆弾を積んでいる。それをこのまま即刻発艦させるか。それとも、またここで魚雷ととりかえ正攻法で攻撃するか。

前者をとれば大きな効果は期待できないが、とにかく先手がとれる。後者をとれば効果の点では申し分ないが、準備に時間がかかる。南雲司令長官は、ここで重大な判断の分岐点に立たされたわけである。
いっぽう飛竜に座乗して第二航空戦隊を指揮していた海軍少将山口多聞は、敵発見と同時に赤城に信号した。
「攻撃隊ただちに発艦の要ありと認む。」
沈思しばらくののち、南雲長官は、ついに運命の決定を行なった。
魚雷による正攻法を選んだのである。

ふたたび爆弾を魚雷に。また、時間がかかる。急げ急げのうちに、敵発見から一時間半もたって、ようやく準備完了。ただちに各艦は、飛行機を発艦させるため、風に向かってつっぱしる。

午前七時二十四分。発艦はじめの号令。飛行長が、白旗を振る。先頭の第一機が、ぶーんと飛び上がる。整列して見送る整備員がいっせいに帽子を振る。その瞬間、マストの上から見張員の、怪鳥の叫びのような声がふってきた。
「急降下爆撃機!」

艦内が飛行機発艦準備に気をとられていたそのスキをねらって、忍びよったアメリカの急降下爆撃機が、赤城をめがけて逆落としにつっこんできたのだ。
対空砲火もまにあわない。
爆弾投下。甲板上の飛行機がたちまちもえ上がり、火の手は甲板上をおおい、艦の内部でも誘爆がはじまる。同じとき、同じような運命に、加賀も蒼竜も見まわれていた。

運命の分岐点はどこにあったか。
いうまでもなく、南雲司令長官が、拙速か、正攻かの二者折一の決定をまちがえたことにある。この場合は、何がなんでも先制攻撃をかけ、たとえ一発でもアメリカ空将の甲板に爆弾を命中させ、アメリカの飛行機が飛び立てないようにすべきであった。
正攻法で沈めるのは、そのあとからでもできたのである。
なお、この本では、ミッドウエー海戦をしはしば引きあいに出すが、それというのも、この重大な海戦の敗因のひとつひとつに、多くの貴重な教訓がふくまれているからである。


拙速のへたな日本の経営
南雲長官は、正攻法か拙速かの選択をまちがった。だが、南雲長官を笑ってはいけない。そうじて、日本人は、この点では判断を誤りやすい。
そのなかで、みごと拙速で成功したのが、早川電機のシャープテレビである。

シャープテレビは、故障率が低いという定評がある。いまから十一年まえ(昭和二十七年五月)、日本てテレビが生産されはじめたとき、当時としてはむずかしかったテレビ生産で、まっさきにこれを量産化し、市場をリードしたのは早川電機であった。

その秘密はどこにあったか。
たねを明かせば簡単である。早川電機の早川徳次社長が、アメリカのRCAにのりこんで、技術提携をしただけでなく、部品いっさいを半年分ぐらい買いこんてきたことである。

ところがほかのメーカーはRCAと技術提携しても、回路の一部とか、ブラウン管とか、むずかしいところだけ技術提携して、やさしそうなところは国産品を使おうとした。
しかし、かんじんの国産技術のほうが思ったよりうまくいかないため、部品のバランスがわるくなり、かえって故障率が高くなった。生産量もふやせない。

そこへいくとシャープテレビは全部輸入であるから、問題は組立てだけだ。だから、はじめからいい製品ができる。そのうちに勉強して、ものにした部品から国産化していく。この早川式速攻法がものをいって、シャープテレビは、スタートにおいて他社をだんぜんひきはなしたわけである。

だが、日本人が拙速を尊ぶというときは、たいてい後手にまわってあわてた場合が多い。こういう拙速は失敗のもとになる。

たとえば住友金属工業は、一貫体制をとる計画と準備という点では、川崎製鉄より早かった。和歌山製鉄所の計画は戦前にできていた。だが持ちまえの慎重主義がたたってその実現において川崎製鉄に先をこされてしまった。そこで、あわてて、本命の和歌山製鉄所の建設をそっちのけにして、小倉製鋼という会社を買収、その溶鉱炉を手に入れて、一貫体制の格好をとった。
 
だが、この溶鉱炉はとんでもない田舎の婆さん芸者で、修理に手のかかることおびただしい。新しい溶鉱炉をつくるくらいに金がかかった。また、小型ストリップミルの稼動て、帯鋼の販路を確保するために、高砂鉄工という自転車のリム会社を傘下にいれた。だが、よく調査せずに系列化したため、あとになってこの会社がとんでもないぼろ会社であることがわかり、大騒ぎになった。

住友金属は、あわてて妙な拙速に走るより、少々しんぼうしてでも、和歌山製鉄所建設に全力を集中すべきであった。そうしたら、もっと早く和歌山製鉄所は完成したであろうし、会社としてももっと早く楽になったであろう。

速攻か正攻法かの判断は、はっきりごてにまわってからの判断でなく、せりあっているときにこそ必要なのである。

自社のセールスマンにひきずられる営業部長
ミッドウエーの海戦は、もうひとつの教訓を含んている。それは、南雲長官が友永電報に追随したことてある。ちょうどセールスマンが、あるお客を攻略するのに「第二次攻撃の要ありと認む。」といってきたのにうっかりのって、宣伝用の予算を片っぱしから接待用、リベート用につかってしまったようなものだ。

友永大尉にかぎらず、何か仕事を与えられて張り切って出かけたものは、現地で拍子ぬけしたり、逆に興奮したりして、かならず「第二次攻撃の要ありと認む」式の応援依頼や自分の判断を送ってくるものである。
それはそれでいい。
なぜならば、本人は現地でほんとうにそう思っているからである。

だが、全軍を統轄する指揮官としてだいじなことは、そういう、現地ての判断を、さらに一判断」することである。南雲営業部長は、友永営業係長の判断に対する「判断」をまちがえ、決定を過ったのである


発艦まえの甲板は危険物がいっぱい! (空母翔鶴艦上)
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一九一六年五月三十一日、イギリス大艦隊百十五隻(司令長官海軍大将ジェリコー)とドイツ大海艦隊(司令長官シーア)九十九隻が、北海ジュトランド半島西方海上で交戦した。

ドイツ側は、再三危機に見舞われたが、ジェリコーの形式にこだわった戦闘指揮によって危機をまぬがれた。

ジュトランド海戦
 第三の道に気づかなかったジェリコー

  「おれにはおれの考えがある」

   松下電器 江崎グリコ 




昭和十九年十月二十五日、レイテ湾のアメリカ輸送船団攻撃のため南下中の栗田艦隊は、とつぜん三十二キロの前方にアメリカ空母群を発見、ただちにこの敵に向かって攻撃を開始した。
砲撃によって、アメリカ空母一隻を撃沈、その後追激戦にうつったが、二時間にわたるもまったく戦果なく、ついに追撃を中止した。そればかりでなく、本来の目的レイテ湾突入をもあきらめ、北上、退却した。

サマール島沖海戦
 ライオンとアヒルのドタバタ喜劇
 輸送船より空母をねらったほうが、カッコいい


  なにがほんとうのライバルか
  カッコいい言葉をつかうな

   貿易自由化問題 アメリカのスーパーマーケット ディスカウント・ハウス
   ジレット コカ・コーラ コルゲート歯磨き クルップ フィリップス 
   U・S・スチール・・・・・日本進出の問題(昭和38年)

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(3) 経営者人事

真珠湾において、山口多聞少将は第二次攻撃を熱心に主張したが、指揮官南雲中将は、第二次攻撃を行なわず、午前十時三十分第一航空艦隊に対し、北上反転を命じた。
パイロットたちは、歯ぎしりしてくやしがった。
それ以来、部下たちは南雲中将に対して不信感をもつようになった。

ハワイ海戦
南雲さんならしかたないや
太平洋戦争努頭をかざる真珠湾奇襲攻撃は、南雲忠一中将の率いる第一航空艦隊によって行なわれた。この奇襲は、国民に向かっては大勝利として報道されたが、作戦計画をたてた軍令部や連合艦隊司令部にとっては、不満な点があった。それは、第一航空艦隊が第一次の攻撃の成功に満足して、敵の狼狽に乗じて第二次、第三次と反復攻撃、だめ押し攻撃をしなかったことである。
後方のものばかりではない。南雲中将が、午前十時三十分、機動部隊に対して、反転北上を命じたとき、はりきっていた空母のパイロットたちは、切歯拒腕したものである。とりわけ摩下の第二航空戦隊司令官山口多聞少将は、第二次攻撃を熱心に主張したがいれられず、ついに「南雲さんならしかたがないや。」とあきらめてしまった。

この不信が、のちのミッドウエー作戦において、「第二次攻撃の必要ありと認む。」というだめ押しの友永電報になり、「敵空母見ゆ。」にさいして、山口少将から、「攻撃隊ただちに発艦の要ありと認む。」という下からのハッパとなってあらわれた。要するに、「南雲さんは頼りない。」という印象が真珠湾以来部下の間でもっばらだったのである。

では、なぜ重要な作戦にこのような頼りない指揮官が生まれたのか。それは、日本の海軍に、年功序列、つまり先任、後任によって、指揮官をきめるという悪習があったからである

南雲中将は、この悪習の犠牲者のひとりてあった。
彼は、元来が水雷科出身で、航空作戦ではしろうとに近い。このようなしろうとでも、長老各であるというわけで、当時最大の花形、第一航空艦隊の司令長官にされてしまった。これでは、もぐらに蝶になれというようなもので、うまくいくはずがない。こういう部隊の指揮官には、山口多聞少将とか、大西滝治郎(当時少将)といった、航空生えぬきのベテランをもってくるべきである。ところがこういう連中がまだ若いというわけで、司令長官にしなかった。

ミッドウェーで、南雲中将が魚雷か爆弾かで迷い、魚雷に積みかえるという最悪の決定を行なったのも、ひとつにはこのことが原因である。南雲中将は、育ちが育ちだけに、魚雷については自信がもてるが、爆鮮には自信がもてなかったからである。

同じように、栗田中将がレイテ突入をやめて引き返したのも、栗田中将は、もともと通信畑の出身で、海上にあって大艦隊を率いるということは、太平洋戦中はともかく、それ以前には、あまり経験がなかったからである。


経営者の資格はなにか

  年功序列によらない、ばってきで成功した経営者
  戦前の大日本紡績の名社長 菊池恭三ほか


真珠湾攻撃 (赤城からゼロ戦の発艦)

ゼロ戦の発艦 (垂直尾翼のA1と胴体の赤帯は赤城搭載機)
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ミッドウェー海戦において、当初全作戦を指揮していたフレッチャー少将は、旗艦ヨークタウンが損傷を受け、戦闘能力を失うや、ただちに麾下の第二部隊司令官、エンタープライズ艦上のスプルーアンス少将に対して、「本職は指揮をとらず、貴官の所信に一任する。」と電報した。

全権を委ねられたスプルーアンス提督は、以後自在に指揮をとり、苦戦のアメリカ機動部隊をして、圧倒的勝利に導いた。

ミッドウェー海戦
sp
 名将スプルーアンス提督、登場のきっかけ
海戦の場合,通常最高指揮官の乗っている艦がやられた場合、次席者に指揮権を一時的に代行させ、やがて他の艦にのり移ったときには、「将軍旗を〇〇移掲、指揮権を回復す。」ということになる。
ところが、ミッドウェー海戦におけるアメリカの主席指揮官フレッチャー少将は、一時的代行ではなく、スプルーアンス
指揮権を全面的に委任してしまったわけである。
なぜそうしたのか。
それは、
航空戦ではスピードがだいいちであるからだ
委任された本人がどうせ代行だからだと遠慮や気がねをしていたのでは、戦機を逸し、いくさに勝てない。
フレッチャーは、こう判断して、みずから指揮権をおりたわけである。

はたして、スプルーアンスは、フレッチャーに気がねせず、果敢な戦術を駆使し、日本空母部隊を全滅させてしまった。

ミッドウェーでのスプルーアンス登用の教訓は、ただちにアメリカ海軍全般に適用された。
以後、アメリカ海軍は、同一作戦を反復する場合、ほとんど例外なく司令官を交替させ、新司令官によってマンネリ化をやぶる新規軸を期待するようになった。
たとえば、沖縄後略戦でアメリカ機動部隊が、日本の特攻作戦で苦戦に陥るや、いったんウルシー泊地に退避させ、司令官を交替させて、再度沖縄、九州、日本本土爆撃をやらせた。

トップを切りかえることによって、内部の士気と戦力を高揚させようというわけである。

  会長ブームの功罪
   
   代表権を持つ会長
   ゼネラル・ダイナミックス ホプキンス会長
   田辺製薬社長 田辺五兵衛 平林忠雄専務に代表権を委譲の教訓
   東洋レーヨン 田代会長  松下電器 松下会長  日興證券 遠山会長・・   
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2 管理編
(1) 総合管理

ミッドウェー作戦開始後まもなく、戦艦大和は、アメリカ艦隊がハワイからミッドウェーに移動しつつあることを暗示する情報、電波をキャッチしていた。しかし、この重大な情報は、前線にいる第一航空艦隊(南雲忠一中将指揮)に通知されなかった。
大和の位置を秘密にするため、発信を控えたからである。

ミッドウェー海戦
山本五十六出撃す
ミッドウエー作戦は、すでにのべたように、四つの部隊によって行なわれた。この作戦で連合艦隊司令長官山本五十六大将は、みずから大和を旗艦とする主力部隊を率いて、ミッドウェー救援にかけつけてくるアメリカ艦隊を待ち伏せるとともに、三ルートにまたがる三つの部隊に対して統合指揮をとった。
このため、主力部隊は、三つのルートのどちらにもにらみのきく扇の要のような場所、ミッドウェーの北西方千百キロの地点に位置した。作戦の失敗にはいくつかの原因があるが、ミッドウェーで日本が敗れた最大の原因は、アメリカが日本の意図を知りつくして、厳重な待ち伏せ体制をとっていたのに、こちらの前衛部隊が、相手は知らないはずと一方的にきめこんで、のこのこ出ていったことである。

一、 敵は戦意乏しきも、わが攻略作戦進捗せば出動反撃の公算あり
一、

敵はわが企図を察知せず、少なくとも五日早朝までは、わがほうは敵に発見されおらずと認む。
一、 敵の航空母艦はミッドウェー付近の海面には行動しあらずと推定す。

これがミッドウエー空襲にあたった第一航空艦隊の、攻撃寸前までの判断であった。まことにのんきなものである。だが、これは、第一航空艦隊司令部だけの罪ではない。なぜならば、第一航空艦隊の司令部は、はんとうにそう信じていたのである。旗艦空母赤城の通信設備が貧弱で、ハワイ方面のアメリカ艦隊の電波電信を傍受し、敵の行動を察知するのに不適当であったからである。つまり、敵情を知ろうにも、技術的にめくらであったわけだ。

中途半端な位置がたたる
ところが、戦艦大和の通信施設は強力である。ハワイ方面の敵の軍艦が発信する電波は、細大もらさずキャッチできる。それによると、五月三十日ごろには、かなりの艦隊が、ハワイからミッドウェー方面に移動しつつあることが推定された。すなわち、山本司令長官は、敵が待ち伏せしているかもしれないということを、うすうす感じていたのである。
にもかかわらず、この重大なニュースを、かんじんの第一航空艦隊に通知しなかった。おそらく、赤城でもこの電波をキャッチしているだろうと思ったことと、主力部隊の位置を秘密にするために、電波の発信を控えたためである。

もし、このとき大和が、少々の危険をおかしてでも、敵が待ち伏せしているかもしれないという情報を第一航空艦隊に通知していたら、第一航空艦隊の楽観主義も一変し、その後の作戦の様相も、根本的にちがったものになっていたであろう。
この意味で、かんじんのときに大和がだんまりをきめこんだことは、ミッドウェー海戦の敗因につながる大きなミステークであったと言わねはならない。

では、どうしたら、このミスをさけられたか。
それは、山本長官と大和が、洋上に出てこずに、瀬戸内海の泊地でるす番をしていればよかったのである。そうすれば、大和は、敵に位置を知られるなどという心配もなく、自由にどこにでも電波を出し、自在に命令し、情報を伝えることができたはずである。それを、なまじ洋上出撃などと気負いこんだばかりに、かんじんの口がきけなくなった。

思うに、山本司令長官が陥ったこのジレンマは、彼が日本海海戦における東郷大将をまねようとしたため起こったものといえる。
戦艦三笠の艦上で、双眼鏡と軍刀を手にバルチック艦隊をにらみ、陣頭指揮する勇ましい東郷司令長官の姿は、由来、帝国海軍の司令官たるべきものの理想像であった。だが、これは明治の日本海海戦の姿である。昭和の太平洋戦争では、同じ海軍の戦闘でも、その様式、ものの考え方において大きく変化している。山本司令長官は、その時代の変化を無視して、東郷をまねようとした。しかも、ミッドウェー北西千百キロといえば、最前線からは遠すぎ、瀬戸内海よりははるかに危険、きわめて中途はんぱなところであった。この中途はんぱな東郷気取りが、ミッドウェー海戦を悲劇の海戦たらしめた根本的な原因といえる。


絵葉書に見る日本海海戦時の連合艦隊主力 (毎年5月にお借りして5年目になります)

ナポレオンは、「戦争は位置のビジネスである。」と喝破している。同じように、戦争は指揮官場所のビジネスである。むかしから、いくさの指揮官は秀吉でも家康でも、戦況がもっともよく見え、命令を自由に下せる場所に床几をすえて全軍を指揮した。現場をうろちょろしたり、勇ましいところをみせるために、兵隊なみの突撃に加わったりはしない。
戦闘の外部に立っていては、なにものも見ることができないし、その中に突入することは、いっさいを忘れさせる個人的経験によって支配されることであった。これこそ戦争のもっとも残酷な特色の一つであった。」(チャーチル著『世界大戦』より)
これは、チャーチルが、第一次大戦ジュトランド海戦の直後にのべた感想である。


社長室をあけるな

※東郷平八郎の幻影(指揮官先頭)にまどわされた山本五十六
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(2) 計数管理

高木武雄海軍少将の指揮する日本艦隊は、昭和十七年二月二十七日ジャワ島スラバヤ沖で連合国海軍部隊と交戦した。この戦いで主砲弾のほとんど全部を使用しつくし、魚雷もまた百二十一本を発射し、ようやく駆逐艦一隻に命中させただけだった。
これは高木少将の指揮の不適当というより、冷静になるべき戦闘管理に及ぼす人間心理が微妙に作用交錯したためである。

スラバヤ沖海戦
 逃げ腰の指揮官
 危機回避における勇と怯
 計算にはまりこむ人間心理


  計数管理の裏にあるもの
  どれがほんとうの決算か
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(3)コミニュケーション

昭和十七年六月六日未明、第七艦隊(栗田艦隊)は、旗艦の右四度に敵潜水艦を発見した。
栗田中将はただちに「緊急左四十五度いっせい回頭」を発令し各艦に信号したが、最後尾の四番艦最上が、信号を見そこない、二十八ノットの高速で転回中の三番艦三隈に衝突した。

ミッドウェー海戦
 最上と三隈の衝突

  文書にもストップ・ウォッチを


重巡洋艦 最上

同型艦・最上と衝突後米軍機に撃沈された三隈 (米軍機撮影)
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一九四一年五月二十一日、デンマーク沖カテガット海峡を通過、北大西洋に出撃したドイツの大戦艦ビスマルクは、イギリスの哨戒駆逐艦サフォークの必死の見張りと触接によってついに捕捉され、イギリス海軍の空、海による集中攻撃によって、二十七日午前七時十分、撃沈された。

ビスマルク撃沈作戦
 くいさがるサフォーク
 ビスマルクから油が流れている


  信頼できる上役には報告しやすい
  簿記とはその日のうちに整理すること



戦艦比叡は、敵の攻撃によって、上甲板が火の海となった。しかし、艦は舵が故障しただけで、艦のなかみは、外からみたほど損傷を受けていなかった。
ところが、西田艦長は、艦内の状況を十分確かめないまま、艦の命運がつきたと判断し、総員退艦を命じ、比叡を自沈させてしまった。

第三次ソロモン海戦
 戦艦比叡の悲劇

  会社という名のマンモス・アパート


昭和8年特別大演習観艦式におけるお召し艦 比叡(手前)
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(4) 協同と調整

昭和十九年十月二十五日、海軍中将小沢冶三郎指揮下の機動部隊は、フィリピン東方海上のアメリカ機動部隊を、北方に吊り上げる囮として作戦を開始した。その間に、栗田艦隊と西村艦隊、志摩艦隊が、レイテ湾のアメリカ軍を粉砕する予定だった。
ところが、いちばんだいじな協同がまったく行なわれず、惨敗に終わった。

 「行けばいいんだろう
  行なわれなかった全体の調整

  価格はなぜ守られないか
  価格に自信を持て
  調整は妥協にあらず
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3 スタッフ編
  ミッドウェー海戦
この作戦は、連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将直率のもとに、四つの部隊によっておこなわれた。すなわち、第一航空艦隊(空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍を基幹とする精鋭空母部隊)は、前衛部隊(南雲部隊)としてミッドウェー島を空襲するとともに、アメリカ空母艦隊をおびきだす。戦艦大和以下の第一艦隊は、主力部隊(山本部隊、高須部隊よりなる)として後方海面で、出て来る敵艦隊を待ち伏せ、これを撃滅する。
同時に第二艦隊(田中、栗田、近藤の各部隊)は、攻略部隊として、輸送船団を率いてミッドウェー島への上陸作戦を行う。第二航空艦隊(細萓、大森、角田の各部隊)は、北方アリューシャン列島ダッチハーバーを奇襲し、アメリカ軍を北方へ牽制する。

文字通り、日本海軍の最盛期のベストメンバーを投入した、雄渾なオールスター戦であった。しかし、作戦計画上の手ちがい、統一指揮の欠陥、そして、決定的なエラーの続出のため、日本側の大敗に終わった・・・・・

m-bonsho

(1) 社長室

ミッドウェー大敗の原因の一つに、作戦を計画した連合艦隊の参謀たちの頭がよすぎたことがとりあげられる。
秀才が知恵をしぼった作戦だけに、机上のプランとしてはりっぱだった。
しかし、作戦を実行する前線部隊には、複雑すぎてよくのみこめず、いざというときに混乱を招いた。

近代戦は凡将を前提とせよ」という原則を忘れたむくいがあらわれたのである。


近代戦は、凡将を前提とすべし

太平洋戦争初期の連合艦隊の参謀陣は、
........
首席参謀
作戦参謀
航空参謀
航海参謀
水雷参謀
通信参謀
機関参謀
戦務参謀
渉外参謀
海軍少将
海軍大佐
海軍大佐
海軍中佐
海軍中佐
海軍中佐
海軍中佐
海軍中佐
海軍中佐
海軍中佐
宇垣  纏
黒島亀人
三和義勇
佐々木彰
永田  茂
有馬高泰
和田雄四郎
磯部太郎
渡辺安次
藤井  茂 

山本長官 藤井参謀 渡辺参謀
(陸軍の石井秋穂中佐とともに最も多く国策を作成)
などの豪華メンバーであった。

ミッドウェー作戦は、これらの参謀陣によって立案計画された。にもかかわらず、この大作戦は、惨憺たる失敗に終わったことは、すでに見たとおりである。
その原因の一つには、作戦そのものが複雑すぎたことがある。
前にのべたように、ミッドウェー島攻撃とその占領アメリカ空母のおびきだしと、その撃滅アリユーンャン方面での陽動作戦 ─── ざっとこんなぐあいであった。
近代戦は凡将を前提とすべし。」と言われている。近代戦は、大量の兵力を投入し、多方面にわたって行なわれるいくさである。とくに航空戦が主体となる場合はなおのことである。

そこで、実戦には多数の指揮官が必要であるが、それらのすべての指揮官に、むかしのようなナポレオンや秀吉のようないくさの天才を求めることは困難である。そればかりでなく、そのような天才や知将が一人や二人いたところで、まにあうものでもない。自然、指揮官の扱が小粒となり、知将より凡将のほうが多くなる。

そこで、最高統帥部にあって作戦計画を立案するものは、その作戦が、どんな凡将でも、作戦現場において迷わず遂行できるように、計画を単純明解なものにすることがたいせつである。つまり、前線の凡将の判断を迷わせるような、複雑精緻にすぎる計画は、できるだけさけることが必要である。
凡将を前提にすべし。」とはこの意味である。
ところが、日本海軍の場合、連合艦隊の参謀ともなれば、それこそ海軍部内よりぬきの秀才、エリートを網羅している。連合艦隊参謀といえば、泣く子も然るほどの楕威と実力を持っていた。

その反面、連合艦隊のもとにあって、現地で各作戦を担当した各艦隊指揮官となると、年功序列制度による任用のため、かならずしも第一級のベテラン、秀才を配したとはいえないふしが多くあった。勇将であっても、知将とはいえない提督(西村艦隊の西村中将)や、凡将を通サこして怯将のレッテルさえはられた無能の提督(第五艦隊の細萱中将、第四艦隊の井上中将、スラバヤ沖の高木少将など)さえふくまれていた。

このため、作戦はりっぱであったが、かんじんの持駒がついて行けないという場面がしばしばあった。
秀才型作戦計画と各担当指揮官の質とのアンバランス。このジレンマが最高度にしっぼを出したのが、ミッドウエー作戦であった。
つまり、この作戦に参加した各部隊の多目的なかけもち計画がかんじんの戦闘場面で、指揮官をして、二つの任務のうち、いったいどの任務に従うべきかの判断に苦しませたわけである。

迷ったのは、機動部隊の南雲中将ばかりではない。
攻略部隊の近藤信竹中将栗田中将も、北方部隊指揮官角田覚治中将も迷ったのであり、驚くべきことは、総指揮官の山本大将さえも迷ってしまった(大和の電波管制、夜戦についての態度決定など)。もし、ミッドウエー作戦が、せめても、複雑巧緻なものでなかったら、その経過はずいぶんちがったものになっていたはずだ。ミッドウェーに、上陸するなら上陸する。敵をおびきだしてたたくなら、この一点に集中する。そのほかのややこしいこと、こみいったことは、いっさいやらない。つまり、どんな優柔不断な凡将でも、目をつぶって計画の実施に没入できるようなものであるべきであった。

異色の秀才・変人参謀・黒島亀人の作成した複雑・巧緻のミッドウェー作戦

図面 完本・列伝 太平洋戦争 戦場を駆けた男たちのドラマ 半藤一利著
PHP文庫 2000年1月19日 第1版 第1刷より


空襲部隊 空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍を基幹とする精鋭空母部隊
主力部隊 戦艦大和 機動部隊の300海里後方 山本司令長官
攻略部隊 ミッドウェー島攻略 上陸占領部隊
陸軍部隊3000 海軍陸戦隊2800 設営隊、気象隊など3200
陽動作戦 空母2隻 アリューシャン空襲部隊
偵察部隊 潜水艦群をハワイに貼り付け 機動部隊空母攻撃
ミッドウェー海戦
 近代戦は凡将を前提とすべし

  まだ育っていない社長室
  道具をひけらかすな
  要点をひとことで言うと
  なんのためのスタッフか
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(2) 総務部

飛行甲板からは、もう薄い煙だけしか出ていなかった。にもかかわらず、応急員たちは、まだホースの手をゆるめない。
「それ、その火にかけろ。」
「あれだ、あれだ。・・・・」

・・・一兵卒からたたき上げの老大尉の内務長が、パックリ開いた飛行甲板の破口を、右に駆け、左に駆け、阿修羅のような奮闘ぶりだ。

吉田俊雄著『海戦』より
 独特の内務科制度

  総務部はどこへ行く
  総務部は無用なのか
  大切な企業の「保信」
  無用論と無能論
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(3) 調査部

昭和十七年六月五日早朝、機動部隊から発艦した索敵機は、「敵を見ず。」と報告した。このため、南雲司令部では、「ほんとうに敵はいない。」と判断した。
ところが、それは、索敵機の見落としであって、ほんとうは、敵空母がすぐ近くにいたのである。

ミッドウェー海戦
 一段索敵と二段索敵
 偵察機を積んでいなかった日本の空母


  調査は質より量である
  情報のネガとポジ
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太平洋戦争末期、対アメリカ情報網の弱体を補おうとして、日本海軍は多数の情報将校を育成、情報特攻隊を作った。名づけて、「白浪特攻隊」。
ところが、この情報部隊は、にわか仕立てのおそまつなもので、なにひとつ役にたたなかった。

 中央が情報を軽視
 泥縄式の補強


  ナンセンスな産業スパイ騒動
  野口 遵の嗅覚
野口 遵(日本窒素<旭化成の前身>創設者)

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(4) ライン内スタッフ

ミッドウェー島にしのび寄った第一航空艦隊の旗艦赤城の幕僚室には、はがゆい空気がただよっていた。
航空戦のベテランの草鹿参謀長や源田参謀が、航空戦しろうとの南雲長官と大石主席参謀に遠慮して、縦横に腕をふるえなかったためである。

ミッドウェー海戦
 適当でなかった前線の参謀配置

日本の海軍は、軍令部や連合艦隊司令部という最高統帥部には、当時第一級の秀才、ベテランを集めていたが、連合艦隊のもとにあって、作戦を分担実施する各艦隊司令部参謀の配置は、かならずしも適切とはいえなかった。

ミッドウェー敗戦の直接原因は、第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将の意思決定の優柔不断である。
だが、その裏には、南雲司令長官を補佐した、
第一航空艦隊の参謀陣に大きな欠陥があった
すなわち、第一航空艦隊の参謀長は、海軍少将草鹿竜之介、その下には、「航空気ちがい」といわれていた源田実中佐が作戦参謀をつとめていた。
しかし、その首席参謀である大石大佐は、こと航空作戦に関しては、しろうとであった。

司令長官も航空戦のしろうと。
それだけに、作戦のすべては、草鹿参謀長と源田参謀が中心となってつくられた。

しかし、この二人の間にたつ大石首席参謀がしろうとでは、作戦をうまくチェックすることができない。しぜん、南雲司令長官と大石首席参謀のしろうと組と、草鹿、源田などのくろうと組との間に意思の疎通が欠け、多少の遠慮が生じた。
作戦の円満な遂行に支障となったのは、とうぜんであった。

このようなことになったのは、参謀人事を、おざなりの
年功序列で行なったためである。
航空艦隊であるからには、ここは、とうぜん、源田中佐ぐらいをばってきして首席参謀にすべきだったのである。

  ライン内スタッフの必要性はますます大きくなる
  スタッフこそ人材主義で

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軍艦のはなばなしい砲撃のかげには、「掌砲長」(しょうほうちょう)と呼ばれるベテラン将校の、不断の血の出るような整備の努力があった。
彼は、砲術に関しては艦内一のベテランであり、参謀におとらない重要な存在だった。

艦船職員服務規定
 海軍独特の「掌・・・・長」制度




太平洋戦争中、米海軍は、日本海軍にたいして、『日本海軍の下士官たちは世界一優秀だが、士官は落第だ』と評した。

海軍には内務、航海、砲術にはじまって、主計、軍医にいたる各科がある。
各科には、その長があって、その下にラインとしての
分隊長(大尉クラスが中心)、分隊士(中、少尉クラスが中心)がある。

「掌・・・長」は各ラインに対して一人ずつつけられる。
砲術には掌砲長、水雷には掌水雷長、飛行には掌飛行長といったぐあいである。
この「掌・・・長」はいったいどんな仕事をするのか。

一言で言い表わせば各科に所属する人員、兵器、器材の管理と整備である。つまり「掌・・・長」とは、各科のマネジメントとメンテナンスを任務とする一種のライン内スタッフであり、技術スタッフである。
しかし、「掌・・・長」には部下がいない。
したがって、命令権も、指揮権もない。
各科のラインの「線」上に付け加えられた「点」である。
ところがこの「点」が、じつは、各科の機能発揮にさいして、絶大な役割をはたすことになる。

たとえば、砲術科の場合、砲撃命令や指揮は、砲術長が行なうが、もし、「掌・・・長」がなまくらで、準備が十分でなければ、円満な射撃は行なえない。そこで砲術長は、掌砲長の働きに、なによりも気を使う。
いつでも用意ができている」が「掌・・・長」の金科玉条である。

ところで、この「掌・・・長」は、
万年スタッフである。
なかには、分隊長に昇格するものもあるが、ほとんどが、「掌・・・長」暮らしである。
移動することがあっても、掌砲長が掌通信長に変わったり、掌水雷長になったりすることはない。
つまり横歩きをしないわけである。
巡洋艦古鷹の掌砲長なら、転勤しても、戦艦長門の掌砲長である。

これに対して、各科長は、移動にあたって横歩きする。
砲術長が航海長になったり、進級と関係して配置が変わってくる。それだけに、新米の砲術長をささえる、生き字引のような万年「掌砲長」が必要なのである。「掌・・・長」は、家つき譜代の家老であり、執事である。それは、参謀肩章をつけたスタッフではない。
だが、たとえ、よごれた作業服をきていても、艦と、その機能にとって、不可欠なスタッフであること、肩章つきの参謀におとるものではない。

「掌・・・長」制度は、陸軍にはなかった。海軍独特のライン内スタッフであった。

  ベテランを重視せよ

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4 経営戦略編
(1) 戦略と戦術

ハワイを奇襲攻撃した日本海軍機動部隊は、真珠湾に在舶するアメリカ戦艦部隊をいっきょに全滅させた。
だが、攻撃がもっぱら艦船に集中され、陸上の燃料庫、工廠設備などに対する攻撃は行なわれなかったため、日本の勝利は表面的なものにとどまった。

ハワイ作戦
 連戦連勝の裏にあるもの
 戦術と戦略のちがい


  企業における戦略と戦術

真珠湾上空の空母瑞鶴搭載の97艦攻
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(2) ゲームの理論

明治三十八年五月二十七日、海軍大将東郷平八郎の率いる日本連合艦隊は、ロジェストウェンスキーの率いる遠来のロシア・バルチック艦隊を対馬海峡竹島沖に待ち伏せ、これを一挙に撃滅した。
一万五千キロの長旅で疲れ果てたバルチック艦隊の心理的なあせり、乗員のノイローゼを計算した東郷の思うつぼに、バルチック艦隊がとびこんできたことが、この大勝利の決定的な要因であった。

日本海海戦
 敵艦見ゆ
 両将の意思と想像がピシャリと一致


  企業間の競争とミニ・マックスの原理
  二者で行なうゲームの場合
  期待が一致しないゲームの場合
  史上最大のビジネスゲーム

バルチック艦隊はウラジオストックに入ることが目的 勝利
聯合艦隊はロシア艦隊をウラジオに入れては敗北 撃滅が目的

いずれか出会う戦場のうち・・・
東郷にとっては有利
ロジェストウェンスキーにとっては不利な順にと仮定する
東郷がバルチック艦隊を邀撃するに当たって打つべき手はA1、A2とする
ロジェストウェンスキーの打つ手はB1、B2となる

東郷ロジェストウェンスキー ロジェストウェンスキー B1 ロジェストウェンスキー B2 横列の最小値
東郷 A1
宗谷海峡

対馬海峡
B
東郷 A2
津軽海峡

艦隊を3つに分散
縦列の最大値 B

バルチック艦隊が日本海にはいる予想進路

●宗谷海峡: 海戦のためには狭い 艦隊の行動に制限 東郷有利
ロシア艦隊 戦略的には常道  ただし燃料問題 濃霧・・・ 艦隊の集結には不向き 
当初より断念
●津軽海峡 海戦のためには狭い 艦隊の行動に制限 東郷有利
宗谷海峡と似た条件
対馬海峡 ロシア艦隊にとって海戦に適する  ロジェストウェンスキー有利
ウラジオへの最短距離
東郷にとってはミニ・マックス ロジェストウェンスキーにとってはマックス・ミニ
●艦隊を分散 :よせあつめの艦隊を分散は東郷の餌食になる


島村参謀: 「敵に海戦を知るものがあれば、かならず対馬を通る
     聯合艦隊司令部は対馬を通ると確信  
     では聯合艦隊はどこで待つか?
            能登半島沖案もあったが、鎮海湾(朝鮮・釜山近く)に決定

その後、哨戒船・信濃丸がバルチック艦隊を濃霧の中で発見!
   石垣島の漁師も発見。通報のため手漕ぎ船で鹿児島に向かう
   到着は海戦終了後・・・(明治の国民の危機意識・・・『坂の上の雲』)

戦場で初の無線機使用により聯合艦隊に「敵艦隊発見!」を通報

鎮海湾で待機中の聯合艦隊、東京へ打電
“敵艦見ユトノ警報二接シ聯合艦隊ハ直チ二出撃 コレヲ撃滅セントス 本日天気晴朗ナレドモ波高シ(秋山真之の付け加え)
    ↑により大本営は勝利を確信
     視界は良好 波高く標準を定めにくい。猛訓練たえた日本に有利
      この一行に情報満載 歴史的名文


勝ちすぎた艦隊決戦と指揮官先頭の東郷の残像が昭和の海軍を縛る
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(3) 海外戦略

昭和十八年六月十九日、小沢冶三郎海軍中将の率いる日本の機動部隊は、フィリピン東方海上に進出、サイパン攻略のため来襲したアメリカ機動部隊と、乾坤一擲の決戦を交えた。
この作戦は、計画としてはきわめて巧妙であったが、かんじんのパイロットの練度不足に加えて、レーダーと敵潜水艦の力を甘くみたために日本側の大敗に終わり、小沢艦隊はむなしく沖縄中城湾に退却した。

マリアナ沖海戦
 アウトレンジと眼下の敵

  ひとりよがりの自由化対策


マリアナ沖海戦で米潜水艦の一発の魚雷で撃沈された最新鋭空母 大鳳
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 帝国海軍の設備投資   先頭へ  目次へ
5 計画編
(1) 投資編

大和、武蔵の建造が決定したとき、大西滝冶郎少将などから猛烈な反対の声があがった。
大西の主張は、「今日、戦艦を新造することは、自動車の時代に八頭立ての馬車をつくるにひとしい。」というにあった。
しかし、山本五十六大将の妥協的意見(※1)もあって、けっきょく、七万トンの大戦艦は完成してしまった。

※1

日本帝国ともなれば、八頭立ての馬車の1台や2台はあってもいいんじゃないか・・・   (伊藤正徳著『大海軍を想う』より)
大艦巨砲主義の根拠
大和、武蔵に千三百億円の大投資
 (※2
         戦艦「武蔵」の見積書

           見  積  書

艦積第54号 昭和12年10月16日
三菱重工株式会社
常務取締役 伊藤達三
海軍艦政本部 御中
 一金 62,538,550円也
但し第2号艦壱隻製造請負代価

内    訳
船体部  金 44,561,520円也
機関部  金 11,503,530円也
兵装部  金 *6,473,500円也 
一、  引渡期限 昭和17年12月28日
一、  引渡場所 長崎港



トラック島に停泊中の大和と武蔵(手前) 大和ホテルといわれた
..
※2 昭和12年における大和・武蔵2艦の建造費は1億3000万円
平成の貨幣価値で1000倍とすると1千300億円
※3 太平洋戦争中にくりだされた艦艇は三百八十余隻・200万トン
当時(昭和38年)の貨幣価値で4兆円と換算(平成で換算すると?)
このほとんどが太平洋に眠る・・・

   大和を作る日本の会社
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昭和十七年八月九日の三川艦隊のガダルカナル泊地なぐりこみ作戦は、日本の精鋭巡洋艦によるものだった。
古鷹加古の二巡洋艦が含まれていた。

この二つの巡洋艦は、軽量、小型で、しかも戦闘力はきわめて強大という点で世界的に有名な名艦であった。

第三次ソロモン海戦
 悲劇の八・八艦隊

日本海軍が、はっきりと大艦巨砲主義にはいったのは、大正九年成立した八・八艦隊法案以来である。
すなわち、十六ヵ年計画で、それぞれ戦艦八隻、巡洋艦八隻を擁する二組の艦隊をつくる。
これが、有名な八・八艦隊のプログラムである。

この計画にしたがって、戦艦長門、陸奥以下の大型戦艦の建造が企てられた。ところが、その翌年の大正十年に、ワシントン軍縮条約が成立したため、日本海軍はせっかくの八・八艦隊をご破算にしなければならなかった。


戦後ビキニ環礁での原爆実験のモルモットとなった戦艦長門

かくて、八・八艦隊という壮大なプログラムは、悲劇の長期計画となった。
このため建造中の旗艦加賀、軽巡洋艦赤城は、あわてて空母に改造、戦艦土佐天城は廃艦、まだ建造にとりかかっていないものは見送りとなった。土佐は、艦砲射撃のモルモットにしろとばかり、標的艦となって、味方の砲弾を全身に受けて沈んでしまった。太平洋戦争後生き残った、八・八艦隊の一番艦長門が、連合軍によって南海に拉致され、ビキニの原爆実験のモルモットにされたのと、符節を同じくする。八・八艦隊は、モルモットに始まって、モルモットに終わったと言える。


空母 赤城

空母 加賀 (改装まえ)

戦艦土佐のスクラップ化は、当時の日本海軍として、まさに痛恨のきわみであった。そして異口同音にこの恨みはかならずはらすことを心に誓った。だが、そうはいっても、当面の問題としては、軍縮の中でちぢむより仕方がない。

そこで、日本海軍は、限られた軍艦のトン数のわく内で、できるだけ戦闘性能のいいものを作らざるをえないことになった。
それには二つの方法があった。

一つは戦闘能力を従来と同じのまま、できるだけ小型のものをつくる。
一つは、大きさが同じで、戦闘能力のさらに大きなものをつくる。

前者の例は、大正十一年に完成した軽巡洋艦夕張である。
この艦は排水量わずか三千トンの小艦ながら、砲力、戦闘力、行動力において、従来の五千五百トン型巡洋艦と同等の機能を発揮する、トランジスター巡洋艦である。いうなれば、巡洋艦を駆逐艦化したものである。


軽巡洋艦 夕張

後者の例は、夕張につづく一等巡洋艦古鷹である。
この艦は、七千百トンの小艦ながら、八インチ砲六門を備え、水雷発射管十二門、速力三十五ノットという当時の相場から見て、きわめて驚異的な巡洋艦であった。今日の言葉で言えば、コンパクト・シップである。ふつう、これだけの性能を艦を作ろうと思えば、ゆうに一万二千トンは必要である。この意味で古鷹は重巡洋艦の軽巡化であるといえる。


重巡洋艦 古鷹

この二つの艦をつくったのは、平賀造艦で有名な平賀譲である。
設計については軍からの要求にも断固譲らず、不譲といわれた。後に東大総長)

軍縮の制限のもとで、できるだけ性能のいい軍艦をつくれという至上命令を受けた平賀は、材料、構造におけるいっさいのむだを拝し、戦闘に役立つものを一ポンドでもよけいにつめるようにくふうした。装甲を薄くし、機関を強力にし、大砲の配置をくふうして、艦の安定と砲力の自在をはかるなど、ありとあらゆる合理化をはかった。


 生かされない平賀造艦


古鷹につづいて加古、加古につづいて妙高那智その他の巡洋艦がつくられたが、すべて、この平賀方式で建艦された。


巡洋艦 加古 (古鷹と同型艦)

重巡洋艦 妙高型・羽黒 世界最高の性能を誇る

こうして、平賀造艦は、世界の造艦界をおどろかせ、古鷹型巡洋艦は、世界の合理化艦のモデル・シップとなった。
加古は、第三次ソロモン海戦で最後のひとあばれをした帰途、アメリカの潜水艦攻撃にあって沈没した。しかし、ソロモン海域のなぐりこみ作戦や、ガダルカナルへの救援作戦に活躍した。いずれも、名艦の名に恥じない活躍ぶりであった。

ところが、せっかくこれだけの名艦をつくりながら、日本の海軍は、昭和十二年軍縮会議が無効になるや、いまこそ大艦建造のチャンスとばかり、いっきに大和、武蔵の建造に突進していった
これまでの加古、古鷹型の苦心など、どこ吹く風。こんどは、節約や合理化とは反対に、なんでも大きく、万事デラックスにと百八十度の方向転換をしてしまった。

  のどもとすぎれば熱さを忘れる日本の企業

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太平洋戦争中、アメリカ海軍は、海上輸送護衛用の軽空母を大量に建造した。
ところが、日本海軍では、直接戦力に役立つ軍艦建造に力をいれていたため輸送はつねに貧弱であった。
そのため、ガダルカナルへの救援などには、駆逐艦や潜水艦をドラム缶輸送につかうなど、苦しい羽目に追いこまれてしまった。


 空母優先のアメリカの拡充計画

  生産部門以外への投資をせよ
  大切な流通機構への投資
  「いつでもお届けします」の精神を
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(2) 商品化計画

日本は太平洋戦争中八百十四万トンの船舶(軍艦以外の輸送船や補給船)を失ったが、そのうち四百八十六万トンはアメリカ潜水艦によって撃沈されたものである。

これに対して日本の潜水艦は、アメリカの軍艦を主として攻撃したため、失敗や犠牲が多かったかわりに、ほとんど実効をあげえなかった。


 役に立たなかった虎の子潜水艦

日本海軍の太平洋作戦は、すべてこれかん違いと錯誤の戦略に指導されたものであった。そのことをもっとも象徴的に示したケースが、日本の潜水艦作戦であった。

開戦当時、日本海軍は第一線級三十隻あまり、第二線級三十隻あまり、合わせて六十隻以上の潜水艦を擁していた。それには、わすか三、四百トンの小型艦、飛行機まで積んでいる、二千五、六百トン級の大型艦まであった。

潜水艦は軍艦の中でも、金もかかり、技術も高度を要するぜいたく品である。貧乏国の日本として、潜水艦六十数隻を保有したということは、ぜいたくという点から言えば、戦艦大和、武蔵をつくったと同じぐらいに画期的なことであった。

日本海軍が、このように潜水艦を多数保有したのには、二つの理由があった。
一つは、ワシントン条約、ロンドン条約による軍縮制限下で、大型間の制限はきびしかったが、潜水艦については、さしてきびしい制限がなかったこと。
一つは日本人の体格、資質が、せまくるしい潜水艦内での活動にむいていたこと。

このため、日本海軍は潜水艦を重視し、拡充につとめた。
ところがいざふたをあけてみると、太平洋戦争での日本の潜水艦はほとんど役に立たなかった。というより、役に立てようとしなかったのである。

戦艦大和には、役に立てようのない時代おくれの錯誤があった。だが、潜水艦は、役に立てようと思えば、十分な機能があった。
それにもかかわらず、日本の潜水艦は、戦艦大和と同じく、役に立たないぜいたく品の双璧にあげられるにいたった。
作戦担当者の頭が、潜水艦使用について、度しがたいまでに過った思想にとりつかれていたからである

 まちがっていた日本の潜水艦使用法

潜水艦は同型の艦船と交戦せざる唯一の軍艦である。したがって、ある一国の潜水艦隊を他国のそれと比較計量すべきでない。すなわち、潜水艦数によって調節すべきではなく、自国の作戦計画および、その特殊事情によって調節すべきである(チャーチル著 『世界大戦』より)

このチャーチルの言葉をそのものズバリ、実際化していったのが、第一次大戦のドイツ海軍である。

ドイツ海軍は、第一次大戦中、三百四十三隻のUボートを大西洋にばらまいた。その目的は敵の通商の破壊である。
はたして、ドイツのUボート作戦は連合国を震撼させ、その無制限撃沈宣言は、アメリカの参戦をひき起こすまでにいたった。


ドイツは小排水量艦を小種大量生産 集団攻撃


撃沈した輸送船のトン数を示すペナントを掲げて帰港するUボート

そのUボート作戦の教訓は、とうぜん日本にも紹介されていた。それなら、日本の海軍が潜水艦を強化したのは、通商破壊のためであったか。

まことに奇怪なことは、じつはそうではなかったのである
日本海軍が、潜水艦を強化したのは、通商破壊ではなく、敵の艦隊との決戦において、潜水艦がはたす補助的役割を重視したためであった。

たとえば、日本の潜水艦には、大きさによって一等、二等などの区分があった。
一等潜水艦というのは、ほとんどが高速の艦隊型潜水艦である。
これは、艦隊が決戦を求めて行動するときに、いっしょについていって、偵察、側面警戒、場合によっては、敵艦に奇襲攻撃をかけるという任務を課せられた潜水艦である。
そのため、高速を必要としたばかりでなく、場合によっては旗艦の役目をはたせるよう艦内の諸設備を強化、拡充した。
さらには、飛行機まで積みこむというデラックス潜水艦もあった。こうなると、潜水艦というより、海中を行動する駆逐艦、軽巡洋艦と言ったほうがぴったりする。


日本の潜水艦は伊号・呂号・波号・・・を多種を製造した

伊15 司令塔前部に偵察機格納搭とカタパルトがある

伊36 同型艦

それというのも、日本海軍には、「輸送船より、軍艦をやっつけたほうが、カッコいい。」という思想が根強くはびこっていたからである
そして、日本の海軍は、潜水艦の使用を、ドイツのUボートとはまるで反対の方向にリードしていった。そのため、Uボートにくらべると、はるかに手間も資金も食う高いものについた。

 潜水艦は通商破壊こそ本命

ところが、日本の潜水艦が敵艦攻撃に成功したのは、ミッドウェーで伊号第一六八潜水艦が、損傷した敵空母ヨークタウンにとどめを刺し、伊号第十九潜水艦が、ソロモン海で空母ワスプを、サイパン沖で原爆を輸送してきた重巡洋艦インディアナナポリス(ただし、原爆をテニアンにおろしたあと)を、それぞれ撃沈した程度で、その他は、攻撃したものの戦果があったのかなかったのか、さっぱりわからないという、まことに無残なことになった。

あげくのはて、こともあろうに、輸送を目的とした輸送潜水艦や、補給用潜水艦までつくった。
なんのことはない、輸送船をやられた仇を、みずからが運送屋になり。タンカーになって討とうとするもので、これ以上の皮肉、本末転倒はない。


輸送型潜水艦 人間魚雷「回天」を搭載して出撃

いっぽう、アメリカの潜水艦の消耗は、太平洋戦争全期を通じて、わずかに五十三隻、太平洋戦にくりだしたアメリカの全潜水艦は二百三隻であったから、消耗率は二六パーセント強である。これは、アメリカの潜水艦が、効率の悪い軍艦攻撃よりも、効率が高くて、しかも戦略的に決定的な意義を持つ、日本の補給線を徹底的にマークしたためである。

事実、日本は、太平洋戦争で、八百十四万総トンの船舶を失ったが、そのうち六割近くの四百八十六万トンは、アメリカの潜水艦によって撃沈されたものである
これに対して、敵の飛行機によって沈められたものは、二百四十七万トンと、三十パーセントにしか当たらない。アメリカの潜水艦が、日本のウィーク・ポイントである補給線をねらって、いかに猛威をふるったかがわかる。極端にいうと、アメリカの潜水艦は、わずか五十三隻の犠牲で、日本の輸送船団の六割を壊滅させたわけだ。
これは驚くべき成功率といえる。


米海軍ガトー級 アメリカも小種大量生産

しかし、そもそも、通商破壊作戦というものは、こういったものなのである。
現に、ドイツ海軍が、第二次大戦で行なった潜水艦による通商破壊作戦でもこれに似た結果が出ている。
すなわちドイツは第二次大戦六年間に、連合国の船舶(軍艦以外の船)を、じつに四千五百隻(二千三百万トン)を撃沈したが、その中でも、潜水艦による成果が前ページの表のように圧倒的である。

古今の戦争史において、主要な武器が、その真の潜在威力を少しも把握理解されずに使用されたという稀有の例を求めるとすれば、それこそまさに第二次大戦における日本の潜水艦である。」(ニミッツ著 『太平洋海戦史』より)

このニミッツの批判は、今日の日本人には容易に受け入れられようが、戦時中の日本海軍の首脳部には、ぜったいに理解されたり、受け入れられることはなかったのである。

ドイツ海軍総司令官・元帥
カール・デーニッツ


米太平洋艦隊司令長官・元帥
チェスター・ニミッツ

ともに潜水艦艦長出身
Uボート 10人のエース
   1位のオットー・クレッチマーの41隻(約27万トン)撃沈を筆頭に
   10名の艦長の撃沈総隻数は318隻187万トンをこえる
.

Otto Kretschmer



Wolfgang Luth


Erich Topp


Karl Friedrich Merten


Viktor Schutze


Herbert Schultze



Georg Lassen



Heinrich
L-Willenbrock


Heinrich Liebe



Gunther Prien
戦死

 商品の特性を生かせ

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日本海軍は、空母の拡充計画の一環として、旧式戦艦の伊勢と日向の後半部の砲塔を撤去し、代わって飛行甲板を設け、前半分は戦艦、後半分は空母という航空戦艦をつくった。

ところが、せっかくの航空戦艦も予想に反して、空母としての実用性がとぼしく、ついに、一機も飛ばすことなく、なんのために改良したのかわからぬということになってしまった。

 役に立たなかった航空戦艦

  伊勢、日向型商品


中途半端だった航空戦艦 伊勢 後ろ半分が航空甲板とカタパルト
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6 組織編
(1) 機構改革

昭和十八年十月二十四日、フィリピン島シブヤン沖で、七万トン大戦艦武蔵は、アメリカ空母機の集中攻撃を受けた。
そのとき、艦長猪口少将は、艦内に無警告で主砲をブッ放した。そのため、つんぼになるもの、ふきとぶもの、艦内は騒然となり、かんじんの機銃は打てなくなった。

 あだとなった主砲発砲
 主砲万能論の悲劇


  本当に必要な組織か

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(2) 経営の多角化

前衛部隊である第一航空艦隊(南雲機動部隊)敗北の報を聞いて、山本連合艦隊司令長官は、大和以下の主力部隊を率いて、米空母部隊に対する、いちかばちかの夜間攻撃を行なおうとしていた。

しかし、ミッドウェーとの距離は千百キロ、最大速力三十ノットでも二十時間はかかる。止むをえず作戦を断念した。
戦艦を主力とする考えが、かんじんの時にわざわいしたのである。

 主力は時代とともに変わる
 機動部隊残酷物語


  多角経営と主力部門

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珊瑚海海戦で、アメリカ空母ヨークタウンとレキシントンは、日本の攻撃機を認めるやただちに距離を開いて分散した。そのため、護衛陣が二つに分裂して、対空砲火にすきまが生じた。
日本の攻撃機はそのすきまに突入して、ヨークタウン攻撃に成功した。

珊瑚海海戦
 兵術は分散と集中の技術である
 珊瑚海海戦の教訓


  多角化によるすきまに警戒せよ
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(3) 事業部制

アメリカ海軍は、強力なタークス・フォースを数多くつくり、サイパン、レイテ、沖縄におしよせてきた。

タークス・フォースとは、空母を中心に戦艦、巡洋艦などにげんじゅうに護衛されているだけでなく、補給用の艦船から、修理用の浮きドックまでつれた艦隊である。
燃料や弾薬の補給の心配なしに、独立して行動できたため、縦横無尽にあばれまわった。

東京への途作戦
 機動部隊産みの親は日本
 アメリカのタークス・フォース


  事業部とはタークス・フォースである
  製品別事業部の弱点
  製品別から統合事業部へ
  独立採算制の盲点

sankoh
  『太平洋戦争と経営戦略』 参考文献</