| 鉄腕稲尾 逝く | |||
| 『諸君!』平成20年1月号 紳士と淑女・・・・・ | |||
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| 鉄腕をもってしても、死神の痩せ腕を振り払うことはできないのだ。こんなに早く稲尾和久の訃を聞くとは思わなかった。 まだ七十だ、日本人の死ぬトシではなかった。 、 稲尾を語るのに生涯勝敗数や防御率、シーズン42勝のタイ記録な、乾いた数字を並べるのは意味がない。彼を語ろうと思えば、ただ1958年(昭和33)のことを物語ればよい。 それは戦後日本、いま流行中の「三十年代」が全員の力を合わせて書いた物語であり、ホーマーにも比すべき一編の叙事詩だからである。 三原修監督の西鉄ライオンズは、日本シリーズで巨人に三連放した。あと一つでシリーズを失い、巨人の天下になる。 当時の巨人は、日本最強の「体制」だった。ナベツネは、まだウダツが上がらなかっただろうが、読売はさておき、巨人は常勝だった。人気に敏感な芸能人は必ず「プロ野球は?」 「やっぱり巨人です」と答えた。 そういう空気の中で体制に反発する世の拗ね者どもは、こぞって熱烈にライオンズを応援した。だが、中西太、大下弘、豊田泰光とスラッガーを並べたのに、なぜかその年は点が取れない。打倒巨人の悲願は裏切られるかに見えた。 第四戦からは、稲尾が四連投した。 第五戦は稲尾がサヨナラ本塁打を放った。彼が塁を一周して歓呼するベンチに戻ってくると、熱狂的なファンの男がベンチ上に正座して、その稲尾を拝んだ。 「神様、仏様、稲尾様」は、そこから始まったそうである。 ライオンズは四運勝し、ウソのような大逆転で優勝を成しとげた。 のちに本人が明かしているが、最終戦の終盤にキャッチャーがタイムを取ってマウンドに駆け寄り、稲尾と配球を打ち合わせた。その捕手が、黙って下を指す。見ると稲尾の手からこぼれあボールが、足元に転がっていた。そ知らぬブリして拾ったが、連投また連投で握力がなくなっていたのだ。それでも投げ統け、彼は勝った。 別府の漁師の子だった。 別府緑丘高校で投げてはいたが、試合のない日は父親を手伝って漁に出る。辛抱強く櫓を漕ぐことによって自然に鍛えられた肩と足腰だった。 朝鮮戦争が休戦してまだ5年、当時の九州には、進駐軍が大勢いた。稲尾はサイの愛称で、彼らの間に圧倒的な人気があった。日本の総理大臣さえ載らない「タイム」誌にサイは写真入りで載り、世界に知られた。 管理野球クソくらえ。 男一匹がマウンドに立って次から次に出てくるスター打者をKOする。野武士が打って走って投げた時代は、稲尾の急逝と共に神話になった。 |
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伝説がまたひとつ・・・・・ 野茂英雄 平成20年(2008)7月17日 野茂引退 (Yahoo!ニュース) |


