| 日本を創った12人 堺屋太一 | ||||||||||||||||||
| 2006年2月17日 第1版第1刷 PHP文庫版 | ||||||||||||||||||
10ch 聖徳太子 h19年11月25日
|
||||||||||||||||||
はじめに───今こそ歴史を ※おわりに |
||||||||||||||||||
今、日本は大きな変革の時期を迎えている。 この変革期の日本において、何が変わるのか、何が変わらないのか。そして変わるとすれば、どういう要素を残して、どういう要素を新しく採り入れ、どのように変わることができるのだろうか。 そういったことを考えるとすれば、まず、日本と日本人の心となり血となり肉となってきた歴史の流れを知ることが重要である。 われわれが「日本的」と考えているものの中にも、太平洋戦争後になってできたもの、さらには一九八〇年代末のバブル景気や少子化社会になってから拡まったものなど、ごく短期的なものもある。だが一方では、連綿と受け継がれた歴史の中で培われてきたものもある。恐らくその多くは、非常に変え難い民族性や国民性になっていることであろう。 古来、日本には様々な文化が入ってきた。 衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形式と内容を含むそれらを、われわれの先祖は、まず驚きを持って接し、やがて厳しく選別し、あるものを拒み、あるものを消化して、やがて「日本的」「日本式」に改造して積み重ねてきた。新しい文化が入っても、以前の文化をまったく捨てるのではなく、ある部分を残して重ねていく───それが日本と日本人の大きな特徴である。 今、日本は激動期にある。 冷戦の終焉によって世界は新しくなり、心地よかった日本の「戦後体制」も崩壊した。こんな時期にこそ歴史を振り返って、日本の由来を探り、日本人が積み上げてきた社会と文化の特色を、しっかりと把握することが大切だろう。 その日その時の政局や景気の動きなど時事問題は分かり易く、訴えるのも易しい。誰もが聞き耳を立て、マスコミも大きく扱う。しかし本当にわれわれが日本と日本人の将来について、あるいは世界との関わりを考えるためには、長い期間に積み上げてきた日本及び日本人の歴史と心の本質を見極める必要がある。 日本と日本人の特徴、日本社会の特色を創り上げてきた根源に、「モノ」と「ヒト」、つまり「風土」と「人物」がある。 風土において、日本は世界的に見ても確かに特別な地勢だ。 まず第一に、アジア・モンスーン地帯に属し、気候が比較的温暖かつ湿潤である。これがコメを作るのには向いていた。 したがって米作農業が大いに発展した。日本の歴史を播くと、縄文といわれる採取漁労時代があり、すぐ次に米作農耕時代が現れる。 世界の歴史では重要な地位を占めている「遊牧・牧畜」が日本にはなかった。急峻な山と狭い平野の日本国土は、動物の群れを追って遊牧するのには適していない。このため、日本人と家畜との関わりは薄く、意思あるものを制御する手法が、有畜時代を経験した諸外国と非常に異なったものになった。 第二に、日本国土を形成する四つの島は、他の国々からは「狭くない海」で隔てられていることだ。 したがって、大量の人々が集団的組織的に、軍事目的や政治目的を持って渡海することは非常に難しかった。しかし、この海は古代の技術でも渡れぬほどには広くない。日本人が中国の王宮に現れた記録は、紀元一世紀に遡る。 つまり、日本列島には軍事的・政治的孤立性と共に、文化的交流性が古くからあったのである。 幸いなことに、この狭くはないが広すぎもしない海の向こうの朝鮮半島や中国大陸は、人類の文明史の中で最も早く開けた先進地域の一つであった。 日本と似たような距離で大陸と離れている国といえば、キューバやマダガスカルが挙げられる。だが、そういった国の場合は、対岸のアメリカ大陸やアフリカ大陸には、古代文明がそれほど発達していなかった。したがって、大陸から高度の文化が絶えず入ってくることはなかった。 その意味では、大量の軍隊が渡来できないほど離れていて、文化が渡来できるほど近かった日本の地理的位置は、世界唯一のものといえるだろう。 第三に、日本国土の主要な四つの島は非常にまとまりがよい。 北海道の開発はずっと後れるが、九州、四国、本州は一体の国となって育つ自然条件を持っていた。 そのため、同一文化が育ち、どこかに中核的な政治勢力ができると、全体が一つの国家になり易かった。 このため、七世紀前半から現代まで、少なくとも文字に残っている歴史の時代、約千四百年の期間には、様々な政争があり、内戦が行われたが、自らが「われらは日本とは別の国だ」と宣言したケースは見あたらない。国土の主要な部分が長期間にわたって外国に支配されたこともなく、国家として分裂したこともない。 以上の三つの条件、つまり、地勢と気候、国際的な位置、そして国土のまとまりが、日本の歴史に重大な影響を与えていたことは事実である。そのせいか、日本人は「風土」論が大好きであり、何事も風土から説きたがる。しかし、風土論だけをあまりに重視するのは危険なことでもある。 例えば、織田信長は非常に闊達な性格だが、これも濃尾平野のひろぴろとしたところで育ったからだ、という説がある。しかし、信長が生まれ育った頃の濃尾平野は、泥沼が多く河川が入り交じり、馬が走り回れるような場所は少なかった。平野で育ったから信長のような性格になるとは、とてもいえないであろう。 つまり、風土論から人間の性格や、その時々の政権の状況を説明するのは無理がある。日本国土の風土は、日本及び日本人に非常に大きな影響を与えたのは事実だが、すべてをそれから証明するのは誤解を招き易い。 むしろ、特定の「人物」、あるいはそれに象徴される階層や集団から受けた影響も決して小さくない。今、われわれが当たり前だと思っていることも、ある時ある人が行ったことが、日本の独自性を生み、独特の国民性を創り上げたことも珍しくない。 もちろん、それは個人の能力や偶然だけによって起こったわけではない。その人その階層がたまたま歴史的必然の仕事をした、という方が正しいかも知れない。ただ、それを分かり易く理解するためには、特定の人物に象徴化されていると見るのも悪くない方法であろう。 本書では、今日の日本にまで深く影響を残している象徴的な十二人の「人物」を取り上げた。 それらの人々が歴史のどの段階で、どう行動し、それが今、われわれの心の中にどう生きているのか。われわれの発想、われわれの社会をどう規制しているのか。 そしてそれが、これから世界と付き合っていく時に、どういう影響を与えるだろか。本書では、そんなことに視点を置いて「人物」を論じることにしたい。 中には、その「人物」の歴史的業績、正確な経歴、生きた時の本当の姿よりも、歴史の中で神話化された「事実」も入っている。しかし、それを含めた全体として、現在の日本と日本人にどういう影響を与えているか、今後の日本に何を残し、どういう形で影響していくのか、そういった面を意識してとらえてみた。 |
||||||||||||||||||
| 堺屋太一 |
| 1 | ||
| 第一章・ | 聖徳太子 10ch 聖徳太子 h19年11月25日 | |
| 「神・仏・儒習合思想」の発案」 | ||
| ・・・聖徳太子が考え出した同時多宗教信仰は、まったく世界に例のない独創だ。 世界にキリスト教やイスラム教の原理主義が勃興し、宗教対立の激化が予想されるこれからの時代、日本人が今に引き継ぐこの思想は、世界的な実用価値を持つかも知れない。 |
||
| 日本人の宗教観の「元祖」 | ||
| 「始代」から「古代」への転換期 | ||
| 仏教公認をめぐる対立 | ||
| 天皇家・蘇我氏の「連立政権」 | ||
| 世界唯一の「習合思想」を発案 | ||
| 「ええとこどり」の気風 | ||
| 「職縁社会」の源流 | ||
| リンク 石田尚豊先生講演 聖徳太子は実在したか | ||
| 古代史新聞 | ||
2 |
||
| 第二章・ | 光源氏 ※ | |
| 「上品な政治家」の原型 | ||
| 「光源氏」は実在したか | ||
| 平安貴族の代表例 | ||
| 貴族政治家の仕事 | ||
| 「上品」という概念の登場 | ||
| 「光源氏」型政治家の登場 | ||
| 「集団主義」と称する無指導 | ||
| 「ノーブル」と「上品」の大きな違い | ||
| 「日本的上品」の通用しない現代 | ||
3 |
||
| 第三章・ | 源頼朝 ※ | |
| 「二重権限構造」の発明 | ||
源頼朝が考え出した権力の二重構造、または権威と権力の制度的な分離も、世界に例を見ない独創である。 しかも幕府という「令外の官」が七百年近くもつづいたことの驚きはさらに大きい。 日本人には、便宜のためにはじめたことを、倫理によっても肯定する実際的能力があるらしい。 |
||
| 前例のない「けったいな政権」 | ||
| 頼朝の登場 | ||
| 軍司令官に過ぎない征夷大将軍 | ||
| 建前の律令制、本音の幕府 | ||
| 「実権は下にある」伝統のはじまり (てた事件) | ||
| 「実権は下にある」伝統のはじまり 96ページ | ||
| ・・・前章で述べた「光源氏」型の貴族像の表裏となって、今も日本的権力機構・統治機構のあり様に尾を引いている。今日も日本社会においては、総理大臣や各省大臣よりも役所の局長の方が実権がある。いや局長よりも本当に実権を持っているのは課長だ、というような例は実に多い。 それどころか、上の人はなるべくあまり細かいことを知らない方がいい、最高首脳はシンボルであるべきで、実権はそれぞれの実施機関に任せる方が正しいやり方だ、という発想さえある。 現在の日本政府はこの伝統を正確に継承しており、大臣は官僚の書いたものをただ読むだけ、大臣が読み間違えたら「けしからん」と官僚はいう。 例えば、海部俊樹内閣の時には「てた事件」というのが起こった。「消費税を改革すべきだ」という野党からの質問があった。食料品などの消費税には軽減税率を適用してはどうかなど、いろいろな議論があったのだ。 その時、海部総理大臣は、大蔵省の担当官から渡されたメモに「消費税は思い切って見直しをする」と書いてあったのに、意図的にか間違えてか、「消費税は思い切った見直しをします」と答弁してしまった。「て」と「た」が違ったので「てた事件」と呼ばれる。 「思い切って」と「思い切った」では意味がかなり異なる。 大蔵官僚が書いた「思い切って見直しをする」は、「消費税は変えた方がいいか、自分としてはいろいろ迷っているが、思い切って見直しをする」ということだから、そんなに大きく変えないかもしれない、とも取れる。 ところが、海部さんのいった「思い切った見直しをする」となれば、相当大きな見直しをする、大幅に変える、という言質を与えたことになる。 大蔵官僚は怒った。 某幹部は「一介の総理が担当官庁の書いた表現を読み間違えるとは何事か」といってしまった。まさしく「一介の官僚」が「一介の総理」という言葉を口に出したのである。普段から高級官僚の抱いている感情がつい出てしまったのであろう。 日本という国では、お蔵官僚に限らず、各企業でも「一介の社長」といいたいところが沢山ある。 たとえば総理大臣といえども、下部の各分野の専門家のいうことは通してやらないとならない。企業でも大組織となると、トップは下の方で詰めた考えの通りにするのがごくごく当たり前になっている。下に逆らわず、「なるほど。きみたちはよくやってくれた。私はその通りに読むよ。分かった、分かった」というのが大物といわれ、日本では尊敬されるのである。 ・・・・・ 中略 ・・・ 頼朝は、武家政治、武士社会を最初に創ったという意味でも、日本史上できわめて重大な人物である。 同時に、そのことによって行政権を宗教権から完全に分離したことも見逃せない。 つまり律令制の「二官」のうち「宗教官」の方は、実質政府である鎌倉幕府には置かなかったのだ。その点でも非常に大きな改革者である。 |
||
| 武家政治を開いた頼朝 | ||
| 大権力者・北条政子の誕生 | ||
| 「令下官」を生んだ二重構造 | ||
| 4 | ||
| 第四章・ | 織田信長 ※ | |
| 「否定された日本史」の英雄 | ||
4 |
・・・例えば、織田信長は非常に闊達な性格だが、これも濃尾平野のひろぴろとしたところで育ったからだ、という説がある。しかし、信長が生まれ育った頃の濃尾平野は、泥沼が多く河川が入り交じり、馬が走り回れるような場所は少なかった。平野で育ったから信長のような性格になるとは、とてもいえないであろう。 つまり、風土論から人間の性格や、その時々の政権の状況を説明するのは無理がある。日本国土の風土は、日本及び日本人に非常に大きな影響を与えたのは事実だが、すべてをそれから証明するのは誤解を招き易い。・・・ |
|
| 大技術革新時代の戦国 | ||
| 大うつけの尾張統一 | ||
| 奇襲ではなかった桶狭間 | ||
| 時代を体現した「兵農分離」 | ||
| 新機軸は「卑怯」 | ||
| 経済を変えた「楽市楽座」 | ||
| 組織の変革───専門兵科の登場 | ||
| 「天下布武」と国家意識 | ||
| 世界史上初の絶対王政ビジョン | ||
5 |
||
| 第五章・ | 石田光成 ※ | |
| 「日本型プロジェクト」の創造 | ||
| 中堅官僚プロジェクトの元祖 | ||
| 運の悪さと戦下手 | ||
| 五奉行と五大老 | ||
| 「巨いなる企て」 | ||
| 三成プロジェクトの手法 | ||
| 「総大将・毛利輝元」で家康に対抗 | ||
| 愚演に終わった名脚本 | ||
6 |
||
| 第六章・ | 徳川家康 | |
| 「成長志向気質」の変革 | ||
| 「人質」から「大御所」へ | ||
| 首都機能・江戸の創設 | ||
| 「律儀」と「辛抱」の普及と封建的秩序 | ||
| 「お上意識」の普及と封建的秩序 | ||
| 人間性の評価基準としての家康 | ||
| 「成長志向」から「安定志向」へ | ||
| 「対外不信」の島国根性の形成 | ||
7 |
||
| 第七章・ | 石田梅岩 | |
| 「勤勉と倹約」の庶民哲学 | ||
・・・また、石田梅岩によって創始された石門心学も、世界に誇るべき独創的哲学である。 これほどユニークな発想が、今日に至るも日本人の本能にまで食い込んでいるのは恐ろしいばかりである。 |
||
| 石門心学の始祖 | ||
| 武士社会はゼロサム社会 | ||
| 元禄バブル景気 | ||
| 現在に通じる吉宗時代の世情 | ||
| 勤勉に働くことは人生修行 | ||
| 「遊んでいるのはもったいない」 | ||
| 勤勉と清貧のジレンマ | ||
| 商慣習となった細部主義 | ||
| 丁寧さ如何が組織人各論に発展 | ||
| 「贅沢は敵」の発想 | ||
| 石門心学がもたらした「ちゃんとイズム」 | ||
8 |
||
| 第八章・ | 大久保利通 | |
| 「官僚制度」の創建 | ||
大久保利通は、試験で合格した官僚の主導力を確立することで、武士階級というものを、制度や権力としてだけではなく、文化としても否定した。 明治十(一八七七)年以降に、武士の服装髪型や言葉遣いが復活することはなかった。フランス革命もロシア革命もなし得なかったことを、明治の日本はあまり血を流さずになし遂げたのである。 同じことは、太平洋戦争のあとでも起こった。・・・ |
||
| 官僚主義の源流 | ||
| 近代化に不可欠だった官僚システム | ||
| 権謀術数で反対派を分断 | ||
| 外国に蔑まされない国を | ||
| ドイツ帝国に学んだ国内体制作り | ||
| 内務卿として国政全般を執り仕切る | ||
| 大久保の死後に強化された官僚制度 | ||
| ドイツ型官僚制度の欠陥 | ||
| 現代の桎梏を招く | ||
9 |
||
| 第九章・ | 渋沢栄一 | |
| 「日本的資本主義」の創始 | ||
明治近代化以降の人々を見ても、外国の技術や制度を学ぶと称しながら、その実、独創的な解釈や目標を加えている。 渋沢栄一は、洋行帰りの新知識の故に銀行や会社の設立を指導したのだが、実際に渋沢が教え拡めていたのは欧米にはない「合本主義」、いわば官民協調と業界談合制度であった。外国の知識を変造改革して日本化した点では、聖徳太子の系統といえなくもない。・・・ |
||
| 「財界」を創った男 | ||
| まず金融制度を創る | ||
| 日本的協調主義の生みの親 | ||
| 対照としての岩崎弥太郎 | ||
| 個人主義の岩崎商法 | ||
| 海運事業で岩崎と直接対決 | ||
| 「財界」と企業系列グループの違い | ||
| 雇われ経営者の「財界」 | ||
| 合本主義の欠点 | ||
| 日本式出世階段 | ||
| 渋沢型からの脱却の時機 | ||
| 『論語』的発想の限界 | ||
10 |
||
| 第十章・ | マッカーサー 厚木に到着 昭和20年8月30日 | |
| 日本を「理想のアメリカ」にする試行 | ||
戦後の日本人はマッカーサーの指導を、軍人文化の消去と受け取った。このため、この国は軍備や軍事に消極的になっただけではなく、軍人(武官)を文化ある人種とは考えなくなり、勇気や果敢さなどの軍人的徳目を全否定してしまった。・・・ |
||
| ウェストポイントを首席で卒業 | ||
| フィリピン奪回から日本占領へ | ||
| 「理想のアメリカ」をお手本に | ||
| 「極東のスイスであれ」 | ||
| 平等と安全重視の倫理を注入 | ||
| 投票制民主主義と地方自治の空洞化 | ||
| 財閥解体と農地解放策を崩した「55年体制」 | ||
| 家族制度崩壊の原因を作る | ||
| 倫理と美意識の改革 | ||
| 物量崇拝と数字信仰を生んだ精神性の否定 | ||
| 軍人と同時に政治家だった | ||
11 |
||
| 第十一章・ | 池田勇人 | |
| 経済大国の実現 | ||
池田勇人も、GNPとか経済計画とか、戦後の世界的流行を採り入れたように見えるが、その行ったところはまったく違う。 欧米の学問と用語を織り交ぜて戦後日本に独特の経済主義を実行したのだ。・・・ |
||
| 「所得倍増」への道 | ||
| 出世遅れの大蔵官僚 | ||
| NGP信仰のはじまり | ||
| 「神武以来の好景気」に助けられる | ||
| 計画をはるかに上回る達成 | ||
| 「貧乏人は麦を食え」の真意 | ||
| 国民の目を「ゆたかなアメリカ」に | ||
| 地域の発展はまず工場から | ||
| 人間の企画化と人口の都市集中 | ||
| 官僚主導体制の強化 | ||
| 集金ルートを確保した宏池会の強み | ||
12 |
||
| 第十二章・ | 松下幸之助 | |
| 日本式経営と哲学の創出 | ||
松下幸之助が利用した技術の基本は、欧米生まれである。松下が発明した製品は数多いが、ほとんどは応用技術か実用新案の類だ。 しかし、この人の生み出した日本式経営は、まったく独創的なものであった。 松下幸之助を、日本式経営と日本的繁栄哲学の創始者として見るならば、電気技術も電子工学もコンセプトを整えるための舞台装置に過ぎないように思えてくる。・・・ |
||
| 国民的英雄となった経営者 | ||
| 電気との出会い | ||
| 強力な販売網で「松下イズム」を普及 | ||
| なぜ国民的英雄となり得たか | ||
| 終身雇用の「日本式経営」を創始 | ||
| 技術者の本田、経営の松下 | ||
| PHP運動の発案と実施 | ||
| 立身出世志向の促進 | ||
| 「会社人間」の「職縁社会」を生む | ||
| 経営者は“偉い”との錯覚を招く | ||
| 偉人の影響を乗り越える時 | ||
| owari |
おわりに |
経済社会のグローバル化とソフト化が進む中で、日本人の独創性がしばしば話題にされる。 日本人は古来、中国や西洋の技術や制度、思想や学問を熱心に学び、よく消化吸収して活用してきた。 このおかげで日本は、今日のような経済大国になり教育先進国になり、規格大量生産に秀でた技術先端国ともなり得た。 しかし、これからのソフト化の時代には、他国のもの真似では追いつかない。独創性に乏しい日本人が世界大競争時代(メガ・コンペティション・エイジ)に耐えられるだろうか、というのである。 たしかに日本人は外来文化の熱心な受容者だった。 古くからこの国は、外来の技術や制度を受け入れると、四十年のちには、それを教えた「師の国」を上回るほどになった。 奈良時代に中国から銅溶着技術を学んだ時も、戟国時代に南蛮人から鉄砲を教わった時も、明治初年に近代製糸業や紡績業を導入した時も、そうであった。 日本が四十年間で「師の国」を上回るようになったのは、太平洋戦争後の電気製品や自動車に限ったことではない。 しかし、その一方で日本人は、実にユニークな独創性を発揮した。 本書に取り上げた十二人の人々の中には、架空の人物も外国人もいる。それらをも含めて、彼らが日本と日本人に与えた影響、それによって創られた日本の社会と文化は、世界に類例のないものである。 まず、聖徳太子が考え出した同時多宗教信仰は、まったく世界に例のない独創だ。 世界にキリスト教やイスラム教の原理主義が勃興し、宗教対立の激化が予想されるこれからの時代、日本人が今に引き継ぐこの思想は、世界的な実用価値を持つかも知れない。 源頼朝が考え出した権力の二重構造、または権威と権力の制度的な分離も、世界に例を見ない独創である。 しかも幕府という「令外の官」が七百年近くもつづいたことの驚きはさらに大きい。 日本人には、便宜のためにはじめたことを、倫理によっても肯定する実際的能力があるらしい。 また、石田梅岩によって創始された石門心学も、世界に誇るべき独創的哲学である。 これほどユニークな発想が、今日に至るも日本人の本能にまで食い込んでいるのは恐ろしいばかりである。 明治近代化以降の人々を見ても、外国の技術や制度を学ぶと称しながら、その実、独創的な解釈や目標を加えている。 渋沢栄一は、洋行帰りの新知識の故に銀行や会社の設立を指導したのだが、実際に渋沢が教え拡めていたのは欧米にはない「合本主義」、いわば官民協調と業界談合制度であった。外国の知識を変造改革して日本化した点では、聖徳太子の系統といえなくもない。 池田勇人も、GNPとか経済計画とか、戦後の世界的流行を採り入れたように見えるが、その行ったところはまったく違う。 欧米の学問と用語を織り交ぜて戦後日本に独特の経済主義を実行したのだ。 松下幸之助が利用した技術の基本は、欧米生まれである。松下が発明した製品は数多いが、ほとんどは応用技術か実用新案の類だ。 しかし、この人の生み出した日本式経営は、まったく独創的なものであった。 松下幸之助を、日本式経営と日本的繁栄哲学の創始者として見るならば、電気技術も電子工学もコンセプトを整えるための舞台装置に過ぎないように思えてくる。 いうまでもなく、ここに取り上げた十二人は「日本を創った人々」の一部に過ぎない。 われわれ今日の日本人は、数多くの先人から様々な影響を受け、その分厚い文化的土壌の上に生きている。 この国において先人たちの業績が殊更に重要なのは、新しい文化や制度が入っても、従来からのものが失われることがなかった点にある。 仏教が拡まっても神道は信仰の対象でありつづけた。 幕府ができても太政官は存在した。 欧米の制度と技術が拡まっても石門心学の精神は残っている。 その意味では、日本においては「過去」が大きな存在である。今日の日本の成功も失敗も、日本の「過去」とは無縁ではない。 今、日本はまた、大変改の時代を迎えている。 日本は「過去」を消し去らぬ反面、「過去」の文化のある面を巧妙に切り捨てた。 源頼朝は鎌倉に幕府を開くことで平安貴族の文化を脱ぎ捨てた。織田信長は楽市楽座と兵農分離を実現することで、貴族化した足利幕府管理体制の文化を過去に追いやった。 大久保利通は、試験で合格した官僚の主導力を確立することで、武士階級というものを、制度や権力としてだけではなく、文化としても否定した。 明治十(一八七七)年以降に、武士の服装髪型や言葉遣いが復活することはなかった。フランス革命もロシア革命もなし得なかったことを、明治の日本はあまり血を流さずになし遂げたのである。 同じことは、太平洋戦争のあとでも起こった。 戦後の日本人はマッカーサーの指導を、軍人文化の消去と受け取った。このため、この国は軍備や軍事に消極的になっただけではなく、軍人(武官)を文化ある人種とは考えなくなり、勇気や果敢さなどの軍人的徳目を全否定してしまった。 今、われわれが直面している大変革も、制度や組織の変革、財政数値や文章手続きの変更で終わるものではない。必要なことは、明治以来積み上げられてきた官僚文化を改め、「民の文化」を築くことである。その意味でもわれわれは、いくつかの点で日本を創った十二人″を超えなければならない。 先人たちが生み残した何を守り、何を切り捨てるか、その選択こそが日本と日本人の未来を決定するであろう。 |