下総鮮魚街道 しもうさ なまかいどう
第十二代 青木源内 (松戸市文化財審議会委員)
昭和56年の松戸ロータリークラブにおける講演録より編集
【第十三代】青木源内氏よりお借りしたものです 挿絵(著者描く)に着色させていただきました
生街道の終着点・納屋川岸と坂川について(編者挿入)
松戸町略史
目次  (行き先から目次に戻るときには←戻るをクリックしてください)
  一・はじめに
  二・宿場に繁栄をもたらした松戸の河岸
  三・江戸時代の宿駅制度
  四・舟運の利点
  五・農村商品の流通に伴う農間稼馬の進出
  六・舟運の発達と河岸場の発展
  七・百万都市江戸と鮮魚需要の増加
  八・初期の鮮魚輸送船と鮮魚輸送をめぐる村々の対立抗争
  九・新鮮魚街道の開通
  十・鮮魚輸送量は年平均約四万籠
十一・鮮魚輸送関係者が負った重い責任
十二・鮮魚街道の裏話
参考リンク 松戸の河岸 青木源内邸

一・はじめに

現在の松戸市は8キロ四方の広がりを持つ地域ですが、江戸時代の松戸は松戸駅の西側を通っている旧水戸街道の両側に連なっていた町並みの宿場をいい、その中心は松戸神社周辺の宮前町でした。
現在松戸市民の多くはその職場を東京都内に持ち、したがって多くの市民も東京に顔を向けていると思われますが、この傾向は江戸時代も同じでした。
松戸宿が江戸に近かったということと同時に、江戸川を利用した江戸との物資の交流について、松戸が地理的条件に恵まれ、江戸との関係が特に深かったためで、松戸の中央志向は現在も変わらないようです。


二・宿場に繁栄をもたらした松戸の河岸


江戸時代の松戸は水戸街道の江戸川渡頭に位置した宿場でした。
そして宿場の西側が江戸川に臨んでいたため、江戸の初期からすでに貢租米の積出し河岸として活動を開始しました。そして江戸中期になると近郷近在の農村から産出された雑穀・野菜・竹木・薪炭・川魚・酒類などの積み出しと、利根川流域の産物の陸揚げ河岸として活況を呈するようになります。

しかし松戸の河岸を最も特色付けたのは、宝永頃から明治30年ごろまで続けられた銚子水揚げ鮮魚の江戸向け輸送の中継基地となったことでしょう。
これが松戸の経済を支える原動力となり、松戸宿の繁栄に大きな貢献をしたことは見逃すわけには行きません。
もし松戸宿が小金宿のように河岸場を持たない単なる人馬継立てだけの宿場だったら、繁栄はなかったでしょう。


三・江戸時代の宿駅制度

記録によりますと、江戸時代の街道や宿場が一応整備されたのは徳川三代将軍家光の寛永年間で、諸大名の参勤交代制度発足によるものといわれてきました。

この宿場制度が設けられたのは、もともと一般庶民の旅行や荷物輸送のためではなく、主として幕府の高官や幕府使節等の公用者および諸大名など、支配者特権者の旅行・通信連絡などの用に供するものでした。しかもそのために宿場は只、または只同様の安い公定賃銭で人馬を提供することを義務付けられていました。それは宿場およびその周辺の住民の犠牲によってお上に奉仕させた制度といっていいでしょう。
もっとも幕府は宿場から収奪するばかりでなく、宿場へ資金を貸し付けるとか、定期的に市を開かせるとか、また(松戸にはありませんでしたが)、地租の減免等の助成措置もありました。
しかし、これくらいでは宿場としてはさしたる潤いにもならず、公用の合間に庶民相手の人馬の提供もしましたが、これは公定の2〜3倍もとったといわれています。

江戸時代の荷物輸送は宿継ぎ、つまりリレー方式が原則で、宿場の積み下ろしの都度、庭線(ていせん)と称する保管料が取られ、また通過荷の場合は、駒口銭(こまこうせん)といって通行料がとられました。また、公用荷物優先の建前から、庶民の荷物はいつも後回しとされました。


四・舟運の利点

こうした宿継の人馬による輸送に比べて舟運はたとえ一般庶民の商品荷物のようなものであっても、差別扱いを受けることはありませんでした。しかも一度に多量の輸送ができ、積み替えがなく、目的地の近くまで直送できた上に、陸運に比べ運賃が非常に安いという利点がありました。
こうした理由で、一度にたくさん積み送る商品荷物の場合に舟運に荷物が流れるのは極めて当然のことだったのです。


五・農村商品の流通に伴う農間稼馬の進出

江戸時代も中期に入り、農業技術も進歩し、生活に余裕の出た農家は米以外の商品用の作物を栽培するようになりました。
商品作物のような多量の荷物を消費地に積送するようになるにつれ、農間稼馬が出現します。農民が農閑期を利用して農耕馬を荷物輸送に使うアルバイトです。
余業ですから運賃も安く、宿場のある本道を避け、間道を通って河岸場などへ進出するようになりました。松戸の後背地の農村では、小金牧で生産された馬のうち、駒としてはねられた馬を買いやすい駄馬として数をそろえることができ、都合が良かったと思われます。


六・舟運の発達と河岸場の発展

こうして農村商品の流通は舟運の発達を促し河岸場の発展につながり、従来から開かれていた公認のお定め河岸のほかに未公認の新興河岸の乱立を招きました。殊に利根川、江戸川筋にはその傾向が激しく、輸送荷物の争奪のために河岸場間の紛争が絶えなかったといわれています。
このため幕府では元禄期から安永期にかけて度々河岸吟味を行い、新興河岸の整理統合を奨めたり、河岸問屋株制度を設けたりしました。松戸河岸では安永年間に行われました。

こうした背景の下で、松戸の河岸活動も次第に活発化してきましたが、さらに享保の頃より松戸が銚子鮮魚の江戸向け輸送の専用中継河岸となるにおよんで、一層賑わいを呈するようになりました。

七・百万都市江戸と鮮魚需要の増加


元禄の頃、江戸の人口は100万人に膨張し、消費都市としての性格を強めるようになり、江戸市民の生活が向上するにつれ、食生活も豊かになり、鮮魚需要が増加してきます。
元禄の頃までは近海ものや東海ものを賄いましたが、人口増加につれ鮮魚の供給が需要に追いつかなくなりました。そこで江戸近傍の漁場として幕府が目をつけたのが銚子沖の鮮魚でした。
銚子沖は親潮と黒潮が接触するので魚がたくさん集まり、日本の四大漁場のひとつに上げられています。

さて、魚は取れても供給には輸送が問題となります。そして鮮魚輸送で最も大切なことはどのように鮮度を保つかということです。
銚子〜江戸間をできるだけ短時間で運ぶために考え出されたのがつぎのコースです。

夕方鮮魚を船積みして銚子の利根川口を出発、利根川の中流まで約80キロを遡り、早朝陸揚げして馬に積み替え、江戸に近い江戸川の河岸場に運び、再び舟で江戸川を下って江戸に輸送するとい方法です。ただし積み出してから三日目の早朝までには江戸必着ということを輸送関係者に義務付けました。

この銚子鮮魚の江戸向け輸送については安政2年(1885)に布川(布佐市の対岸の町)の医者・赤松宗旦という人が記した『利根川図志』(利根川流域の風土・気象・地理・産物・運輸・名称旧跡などの調査記録)に次のように記されています。

銚子浦より鮮魚を積み上げするを「なま舟」という
舟子三人にて日暮に彼処を出で夜間に二十里余の水路を遡り未明に布佐布川に至る
特にこの処を多しとす。故にその賑い他所に倍し、人声喧雑肩摩り踵接し、傾くる魚は銀刀を閃かし(中略)而して冬は布佐より馬に駄して松戸通りよりこれを江戸に輸り夏は活舟(いけぶね)を以て関宿を経て日本橋に到る(以下略)



八・初期の鮮魚輸送船と鮮魚輸送をめぐる村々の対立抗争

銚子鮮魚の江戸向け輸送が開始された元禄から正徳の頃までは中利根の河岸場から江戸に近い江戸川の河岸場までの駄走路はこの略図のようにいくつかあったようです。
私の先祖は江戸時代、松戸の納屋川岸というところで代々船問屋渡世を営み、松戸に到着した鮮魚を船で江戸日本橋に輸送していましたので、鮮魚街道に関する古い記事が若干残されておりますのでそれをもとにお話します。


下総鮮魚街道略図  青木源内氏作図の原画に着色・加筆させていただきました



まず・・・
@ 木下または布佐から白井鎌ヶ谷八幡をへて行徳に至る行徳コース
A

布佐から手賀沼の北岸を通り、我孫子の高野山(こうのやま)から水戸街道に出て松戸に至るコース。
B 柏市の布施から松戸もしくは流山加邑にいたるコース

・・・などがありましたが、その頃はまだ後年鮮魚(なま)街道といわれた手賀沼南方を通って松戸に至るコースは開かれていませんでした

ところが、正徳年間に、布佐揚げ鮮魚の行徳街道通過に対して、木下、鎌ヶ谷、八幡連合による輸送妨害事件が発生しました。
というのは、お定め河岸をもつ木下村は、かねてから隣村の佐竹街道の渡頭にある布佐河岸に鮮魚荷が流れるのを快く思っていませんでした。

そこで木下は同じように鮮魚荷の通過が少なくなっていることに不満を持っていた行徳街道鎌ヶ谷、八幡の両宿を誘い、布佐揚げの鮮魚荷が鎌ヶ谷宿を通過した際、従来鮮魚荷は積み替え無用と取りきめられていたにもかかわらず、何の理由もなく積み替えさせ、そのために鮮魚が腐敗して損害を受けた事が何度かありました。

そこで布佐はおおそれながら、とお上に木下、鎌ヶ谷、八幡の三村を訴え、もみにもんだ末、江戸の評定所に達するほどの事件に発展しました。
結局、鮮魚荷は急送を必要とするので、積み替え無用との採決が下され、布佐側の勝訴となりましたが、その後、布佐と木下の仲はしっくりいかなかったようです。


九・新鮮魚街道の開通

その後享保の中頃、手賀沼南部地域に新田が開発されるに伴い、布佐松戸間を結ぶコースが開通し、次第にこのコースを鮮魚荷が通るようになりました。
この道路の開通に当たっては、松戸としても地元の潤いとなるため、資金的援助を惜しまなかったといわれています。
しかもこのコースは行徳コースよりも距離が数キロ短く、さらに宿場のある街道を通らずにするという利点がありました。

時がたつにつれ、布佐揚げの魚はこの新道に集中するようになり、いつしか鮮魚街道(なま街道)とよばれるようになりました。
なお、この新鮮魚街道開通後、鎌ヶ谷や八幡から通過荷の減少によって宿場が衰微したので、度々新道通過を抑制するようお上に提訴したようですが、松戸・布佐の結束は固く、松戸・布佐側に有利に裁定されたそうです。

ところでこの鮮魚街道コースは・・・
布佐より浦部平塚河原子冨塚佐津間金ヶ作門前(現在の八柱駅付近)〜陣ヶ前を通り、千葉大学園芸学部横の一丁目坂を下り、終着の松戸納屋川岸に達するものです。

さらに納屋川岸から再び御用有運送船に積み込まれ、江戸川を下り、本行徳の前を通過し、当代島の手前で新川掘(これは徳川幕府が行徳浦安地域の塩田で作られた塩を江戸の運ぶために掘られたといわれています)に入り、中川番所前をすぎ、小名木川を経て隅田川に出て、日本橋川を上り、江戸・日本橋小田原町の魚河岸に達しました。

参考までに述べると、当時生魚を松戸納屋川岸から江戸日本橋魚河岸迄運んだ船の通行鑑札の表には、「御用有運送船 昼夜通船 七艘之内」と書かれており、裏には「問屋行事 水主四人衆 下総国松戸宿源内船」と書かれ、表裏ともに焼印が押されています。

これで見ますと、金町、松戸の関所の通行時間は、明け六つから暮れ六つまで(6時〜18時)とされていたにもかかわらず、鮮魚輸送船は昼夜を問わず通行できたことがわかります。


十・鮮魚輸送量は年平均約四万籠

このようにして布佐から鮮魚街道を通って松戸河岸に送られた銚子鮮魚の駄送量は宝暦年間から安永年間(約230年〜200年前)にかけて最高潮に達し、毎年八月から翌年四月までの間の平均駄送量は約4万籠に達したといわれています。
一駄につき積載量は130〜140キロで10籠といいますから、使用した馬の頭数だけでも年に延四千頭にのぼります。

到着した鮮魚を下ろしたり、再び船に積んだりした納屋川岸の喧騒と賑やかさは想像以上だったと思います。また、積み上げられた鮮魚の臭いはいつも河岸場付近に充満していたのではないかと思われます。

十一・鮮魚輸送関係者が負った重い責任

鮮魚輸送をめぐって各村々の対立抗争があったということは、それだけ輸送に伴う商売に妙味があったのではないでしょうか。
しかしその反面、銚子鮮魚は発送してから、江戸日本橋に三日目の早朝までに必着が至上命令で、輸送関係者には非常に重い責任が負わされていました。
文化二年、布佐の荷宿が銚子の網元に対して入れた一札に以下のようにあります。

いか程大荷なりとも、兼而御規定之通り、(中略)万一江戸三日目朝売買後れ仕候はば、御売損金私共勿論寄馬村々迄も割符いたし出金仕り、毛頭御損毛無之弁金可仕候

この一札には松戸の問屋も保証人になっています。
さらに同年、松戸と布佐の荷宿が日本橋の魚問屋に対し、つぎのような一札を差し入れています。

万一粗末之取計仕、荷後れ等有之候はば、右売損何程有之候共急度弁金可仕候(中略)弁金為手当、我等所持之田畑五反八畝歩書入置候 若相滞候節は右書入御両人江被引取候共 其節一言之儀申間敷候

このように鮮魚輸送上の取り決めは厳しく、輸送関係者は江戸へ三日目早朝までに必着のため、いかに心血を注いだかがわかるような気がします。


十二・鮮魚街道の裏話

鮮魚輸送中は魚の鮮度を落とさないように笹の葉が使われました。
生きた魚は血を抜き、笹の葉を敷いた竹篭に入れれば数日はもち、さしみにもできたといいます。死んだ魚はえら・わたを抜き、笹の葉でサンドイッチのようにくるみ、竹篭に入れて送ったといわれています。

また、鮮魚街道が通過する門前というところ(新京成の八柱駅付近)には代官の陣屋があり、鮮魚荷を積んだ馬が通ると、そこの住民が陣屋を嵩に着て、おどしたり、いやがらせをしたりするので、馬子たちは仕方なく積荷の魚をいくらか置いて通してもらったそうです。

俗謡に、「松戸千軒こわくはないが、門前十三軒こわくてならぬ」と唄われたそうです。また日暮音頭に、「お江戸通いの鮮魚街道 銚子の風の吹いた道」とも唄われました。

今鮮魚街道の終着点となり、江戸への輸送中継点となった松戸の納屋川岸には、当時の面影を伝えるものはほとんど残っていません。昔と変わらないのは今も悠々と流れている江戸川の水だけです。
私の「下総鮮魚街道」の話はこれで終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。
河岸通り


明治前期手書彩色関東実測図 「千葉県下総国東葛飾郡松戸駅近傍村落」 <1/20,000> 青字加筆
建設省国土地理院蔵・(財)日本地図センター発行の復刻板より複写
松戸市旧宿場町建築物調査報告書.松戸市立博物館発行平成11年3月31日


リンク 松戸の河岸



下総生街道 
第十二代 青木源内 (昭和51年8月稿)

江戸時代、利根、江戸の両川は、関東内陸各地と江戸とを結ぶ水運の大動脈であった。

正保年間江戸川に新流路が開削され江戸と中、下利根方面が直接連絡できるようになると、川筋にはつぎつぎと河岸場が開かれ、沿岸各地より積出された諸物資の輸送中継場となったが、これら諸河岸のうち、水戸街道の江戸川渡頭宿場であった松戸河岸を最も特色づけたものは、宝永から明治の中頃まで続けられた銚子水揚げ鮮魚の江戸への中継輸送であった。

即ち、利根中流にある布佐から、手賀沼南方を経て松戸河岸に駄送された鮮魚は、ここで「御用肴運送船」(源内船)に積み込まれ、江戸川を下り、新川小名木川を通って江戸日本橋河岸小田原町)へ輸送された。
後、この鮮魚駄送路が俗に「下総生街道」または、単に「生街道」といわれるようになった。
この生街道は、現在の松戸・鎌ヶ谷間の県道と、その先の手賀沼南方を経由し、印西町浦部で銚子行徳街道に合流するものであるが、現在、道幅が拡げられたり、コースが変更されたりして、旧道の面影は殆んどない。それでも、沼南町に入ると、生街道の跡が僅かに残されている・

ところで、銚子鮮魚の江戸向け輸送のことは、安政二年下総国相馬郡布川(布佐の対岸)の人赤松宗旦の著書「利根川図志」に次のように記されている。

銚子浦より鮮魚を積み上げするを「なま(魚×3・変換できず)舟」という
舟子三人にて日暮に彼処を出で夜間に二十里余の水路を遡り未明に布佐布川に至る
特にこの処を多しとす(中略)
而して布佐より馬に駄して松戸通りよりこれを江戸に輸り は活舟(いけぶね)を以て関宿を経て日本橋に到る(以下略)

さて、元禄の頃より、江戸は急膨張によって消費都市としての性格を次第に強めていったが、江戸市民の食生活が豊かになるにつれて鮮魚の需要も急激に増加し、従来の東海ものや近海ものだけではその需要を満たすことができなくなった。
そこで江戸に近い銚子漁場の鮮魚を江戸に送り、市民に供給することが考えられた。
鮮魚輸送で最も肝要なことは、鮮度をできるだけ落とさないようにすることであった。それには、短時間内に急送しなければならないので、そのために選ばれたのが前記の輸送ルートであった。

筆者の家に保存されている古い資料に寄れば、銚子鮮魚の初期の輸送路は、布佐の隣村木下に揚げ、銚子行徳街道を行き本行徳に至るものをメイン・ルートとし、脇道として、布佐より行徳街道ルート、また布佐より手賀沼北岸経由で松戸または流山に至るルート、そして柏市の布施から流山または松戸に出るルートがあった。

ところが、正徳の頃、布佐揚げ鮮魚が鎌ヶ谷村を通過する際、従来付け通し駄送だったにもかかわらず、積み替えをさせられるという事件が度々発生した。そのために荷痛みや腐れなどの損害がでた。
布佐側で調べたところ、隣村の木下河岸の差し金で鎌ヶ谷村が布佐荷の通過を妨害したことが判明した。御用河岸である木下河岸の隣村布佐村の荷揚げ増加に対する抵抗であったと思われる。

布佐は鎌ヶ谷村を訴え、江戸の勘定奉行に達するほどの事件になったが、もみにもんだ末、布佐側の勝訴となった。
その後、両者の間はしっくり行かなかったようだが、たまたま享保年間に至り、手賀沼南方の新田開発に伴い、新道が開通すると、これに呼応するかのように、松戸からも新道建設が進められ、手賀沼南方で連絡した。

松戸側としては、従来の手賀沼北岸ルートに代わる近い平坦な道を求めていた矢先でもあったので、地元では多大の援助を行った。この新ルートは、銚子・行徳ルートに比べても距離が幾分近く、且つ坂道が少なく駄送に楽だったので、鮮魚輸送は次第に新ルートのほうに移動した。
のち、鎌ヶ谷・八幡両村から、鮮魚荷の減少により、村が衰微するので新道通過抑制方がお上に提訴されたが、その都度布佐・松戸の協力は固く、布佐・松戸側に有利に採決された。

このようにして新ルートにおける鮮魚輸送量は元文・宝暦と年をおうごとに増加し、松戸河岸ではこのために江戸へ輸送する専用船が不足し、船に積み替えなしで江戸までの付通し駄送が認められた程であった。
ちなみに、宝暦十三年(1763)の冥加金上納取調に関する松戸鮮魚荷宿上申書の記録によれば、松戸荷宿における前年八月より翌年四月までの鮮魚取扱量は、3453駄(1駄は40貫【150kg】)約35,000篭に上ったという。・

生街道に関する遺跡としては、沼南町藤が谷の台というところに生街道の安全を守るため、明治12年に造立された約三米の立派な常夜燈が現存、同町の史跡に指定されている。

明治前期手書彩色関東実測図 「千葉県下総国東葛飾郡松戸駅近傍村落」 <1/20,000>
建設省国土地理院蔵・(財)日本地図センター発行の復刻板より複写
松戸市旧宿場町建築物調査報告書.松戸市立博物館発行平成11年3月31日         青字 茶字 茶線 編集加筆

河岸道との記載がありますが、ここを通って納屋(源内)川岸に至ったのでしょうか?

『昭和の松戸誌』 の著者・渡邉幸三郎先生によると、生街道の終点・納屋川岸に至る道は今の県道の東側に竹ノ花道河岸道宮前道御成り道の4本があり、下横町、河岸道、上横丁等を通って納屋川岸に至ったが、一番多かったのは上横丁だったとのことである。


文化年間(1806〜17)に幕府が製作したした分間延絵図・・・原画は国立東京博物館と逓信博物館
松下邦夫著 改定新版 『松戸の歴史案内』 郷土史出版 (昭和57年7月1日改定版)

現在の坂川の場所 (渡邉幸三郎著 『昭和の松戸誌』 154Pを御覧ください
上図  文化年間(1806〜17)に幕府が製作したした分間延絵図より作図


明治前期手書彩色関東実測図 「千葉県下総国東葛飾郡松戸駅近傍村落」 <1/20,000>
建設省国土地理院蔵・(財)日本地図センター発行の復刻板より複写松戸市旧宿場町建築物調査報告書
 松戸市立博物館発行

第十二代 青木源内氏著作

松戸と江戸川 松戸史談( 9) 松戸史談会
江戸川の蒸気船 通運丸の盛衰の跡を顧み 松戸史談(10) 松戸史談会
松戸宿の成田山出開帳について 松戸史談(12) 松戸史談会
生街道の終点松戸鮮魚荷宿 松戸史談(13) 松戸史談会
浅利又七郎と千葉周作 松戸史談(14) 松戸史談会
松戸における水戸・彦根両藩船の乱闘事件 松戸史談(15) 松戸史談会
松戸より江戸への近道と江戸の物価 松戸史談(16) 松戸史談会
松戸市内の水戸街道今昔 松戸史談(17) 松戸史談会
松戸の四国八十八札所写し寺 松戸史談(19) 松戸史談会
松戸の水神信仰について 松戸史談(20) 松戸史談会
蘇る松戸出身の天才洋画家板倉鼎画伯 松戸史談(23) 松戸史談会
平潟今昔 松戸史談(25) 松戸史談会

納屋川岸 青木源内家略系図

元祖源内 二代源内 三代源内 四代源内 五代源内 六代源内 七代源内
三郎兵衛 融通院 薬王院 速證院 明覚院 円寿院 聡明院
元禄8年没 延享2年没 天明5年没 文化8年没 文政11年没 嘉永元年没 文久元年没
1695 1745 1785 1811 1828 1848 1861

八代源内 九代源内 十代源内 十一代源内 十二代源内 . 当代
隋台院 量蔵 晴之
明治29年没 昭和8年没 大正12年没 昭和18年没 昭和61年没
1896 1933 1923 1943 1986
大正4〜5年町長


大正11年発行 松戸町史より (現代文字使用)
松戸町沿革

松戸の名称は其由来詳ならざれども、日本武尊が従臣と待ち合わせし所なれば後世「まつと」と云へりとの口碑を残せり、
更級日記
に鏡の瀬、松里の渡とし、義経記に、松戸の庄、市川云々とせる等より見れば其の名称の古きを知るべし。

此地上古、地理志料に、国造に司配せられ後下総国司に依て冶せらる、下総舊事考云駅家即言井上駅也今東葛飾有松戸駅云々と、
今松戸松龍寺側に小塚ありて観世音祠あり、里俗すくも塚観音と称す 蓋し往昔駅家のすくも塚遺址ならん。

国郡の制紊れて荘園起こるや、千葉氏に属し即ち常胤の所領として東氏の所管たり 而して其四郎胤康が風早の庄司たるや其諸領地の一部たりしが北条長時の相模台に築きしより守時に至る四代間は其直轄地たり、
北条氏亡びて再び千葉氏の所領となり、其老臣原氏の所轄たりしが小金城主高木氏起るに及び是れが所領たり、
然れども天文、永禄両度の鴻の台戦乱には、共に兵馬の巷たれば、其間の消息は以て推するに足るべし、

高木氏亡びて徳川氏の領地となるや、天正十八年以後、松戸、栗山は常に代官支配地たりしが矢切は麾下の士野間加藤浅羽三氏の分食地たり、
後浅羽氏は返地し、加藤氏は絶家し、野間氏独り上矢切の一部を食み中矢切、下矢切および上矢切の一部は代官支配地となり、小山は代官支配地、地頭地相半ばして徳川幕府瓦解に及べり

明治元年知県司支配 同二年小管県 同四年印旛県の所管を経て同六年千葉県所轄となり、第十二大区第二小区に編入せられしが、同十一年本郡役所を此地に置くに當りて其所属となれり、

當時松戸駅戸長役場を置き小山村之に組合ひ、三矢切及び栗山村は相連合して、下矢切村に戸長役場を置きしが、同十七年松戸駅外四ヶ村戸長役場を置きて之を管せり(栗山村は市川村組合となる) 
而して同二十二年村制施行と共に、再び栗山村を容れて現今の状態となれり。

官公署
松戸町役場 大字松戸字坂一三二四にあり、明治二十二年四月松戸町の成立と共に現地に所在せり、
吏員は町長(名誉)一、助役(有給)一、書記七にして、歴代戸長及び町長氏名左の如し。

町長
安蒜權佐衛門 自不詳 至不詳
鈴木平兵衛 自不詳 至不詳
大貫精三郎 自不詳 至不詳
吉田  精一 自不詳 至不詳
石綿安太郎 自不詳 至不詳
横山  定一 自不詳 至不詳
山下  寅吉 自不詳 至不詳
水上   C 自不詳 至不詳
本庄 成直(代理) 自不詳 至不詳
増井  確一 自不詳 至不詳
町山廣次郎 自明治43年11月 1日 至大正 3年10月31日
青木  源内 自大正 4年 3月18日 至大正 5年 7月22日
鈴木孝太郎 自大正 5年 8月 9日 至現在(大正11年)
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さざなみ情話』 乙川優三郎著 朝日新聞社