| 司馬遼太郎 国取り物語(四) 新潮文庫 昭和47年12月30日7刷 | |
(光秀と秀吉) |
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| 437ページ | |
| ・・・天正三年五月の暮、光秀は一世を驚倒させる風聞をきいた。やがてその確報を得た。 信長が、三河の長篠で武田勝頼の大軍と合戦し、その日本最強といわれる故信玄の大軍団を完膚なきまでに破った、というしらせである。 (あの信長が。―) 光秀は胴のふるえるような、異常な衝撃におそわれた。よろこび、というようななまやさしい感情ではない。恐怖かもしれなかった。いままで光秀は信長の思想、性行を好まず、さらにその才能についても、 (自分のほうがすぐれている) とひそかに思い、そう思うことによって信長から受けるたびたびの侮辱に堪えてきたのだが、長篠での一戦は光秀のその自信を根の底からゆるがせた。信長を、光秀ははじめて畏怖した。 (あの男はひょっとすると、自分などの及びもつかぬ天才なのかもしれぬ) この合戦地の長篠設楽原は東三河の山谷地帯にある小高原で、ここに展開した両軍の人数をいうと、 武田軍 一万二千 織田・徳川軍 三万八千 であった。 が、武田軍は故信玄の軍法ゆきとどき、その精強さは一騎で他国の四、五騎に相当するといわれた。兵の強弱でいえば織田家の母体である尾張兵はとりわけ弱いとされている。このため三倍の人数があっても、ようやく互角の戦い、というのが常識であった。 その証拠に、戦わぬ前から織田家の士卒は恐怖し、敵陣を窺いに行った斥候たちは馳せ帰るとことごとく武田軍の偉容を、戦慄するような口ぶりで報告した。 その模様をあとできいたとき光秀も、 (さもあろう) と思った。光秀でさえ武田軍の正々堂々の軍容とその鬼神も避けるような勇猛さを思うとき、ほのかな戦慄を覚えざるをえない。 が、現地の信長にはすでにこれを破砕する構想があった。かれは岐阜を進発するときから、すべての足軽に材木を一本、縄を一把ずつ持たせ、現地につくとそれをもって予定戦場に長大な柵を構築し、ところどころに木戸さえつくった。 かつ、織田軍の執銃兵一万人のなかから射撃上手を三千人選び、それを柵内に入れ、千人ずつ三段に展開させ、武田軍のもっとも得意とする騎馬隊の猛襲を待った。ついに計略は図にあたり、柵にむかって怒涛のように突撃してくる騎馬集団は信長の考案した「一斉射撃」という世界史上最初の戦法の前にうそのように砕け去った。 (なんという男だ) と、京で光秀はおもった。 光秀は鉄砲という、三十年前にこの国に渡来したあたらしい兵器については、その機械としての研究においても、その用兵法の研究においても日本第一という定評があり、当初、信長が光秀を抱えたのも、 火術家 という点で魅力を感じたからであった。 光秀には当然その戦法に自信があったが、その光秀でさえ信長が長篠で演出した「三段入れかわりの一斉射撃法」というのは思いもつかなかった。信長のやったその方法では、戦場の空間内で、千発の銃弾が間断なく飛びつづけていることになるのである。 (思いも、及ばなんだ) 光秀は、劣敗の思いをもった。筑前守秀吉のような男なら、この劣敗感はただちに信長への畏敬という質に転化し、無邪気に信長を学ぼうとの姿勢に移るであろう。しかし光秀にとっては自信のひたすらな敗北でしかない。その結果、光秀の場合、信長畏敬という気の楽な転化を遂げず ―遂げればどれほど気が軽かっであろう― 相手の金銅仏のように重々しい像に威圧され、あやうく自信を圧殺されそうになった。 |
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| お気に入りの一節 | |||||||||
| 司馬遼太郎 国取り物語(四) 新潮文庫 昭和47年12月30日7刷 | |||||||||
| 95p | |||||||||
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・・・・ 信長は光秀に期待していた。公方の側近である「光秀を手もとにひきとることは、自分の天下への夢に、夢ならぬ現実の石をひとつ置いたことになる。 (どのような男か。軍陣のことから詩歌管弦まであかるい人物ときいているが) 翌々日、信長は、竣工もま近い岐阜城に入った。 父の信秀のころから二代にわたってあこがれぬいた稲葉山城である。 (ついに獲た) という信長のよろこびが、あれこれと城の造作を変えさせた。 この濃尾平野をひと目で見おろす城を手に入れたとき、信長はつくづく道三の地相眼や築城のたくみさに驚嘆した。 長良川を天然の外堀にし、稲葉山そのものをことごとく城塞化し、城門と城外の道路をたくにみ結合させて守るにも押し出すにも絶妙の機能性を発揮できるようにつくられている。自然、この城塞そのものについては、信長がことさらに新工夫を加えるという点はほとんどない。 城塞は修築するだけにとどめ、むしろ山麓の居館の新築と、城下の構造変えに信長は意をつくした。 ところがこの城を得、この城にときどき泊まるようになってから、(道三はさほどの人物ではなかったな) と、信長は思うようになった。山上の城塞は不便すぎるのである。なるほど堅牢そのものだが、いざ住んでみると、堅牢すぎることが城主としての心の活動をにぶくするのではないかと思われた。 防衛にはいい。 そのよすぎることが、殻の中にいるさざえのように清新溌剌の気分を失せさせ、心を鈍重にし、気持ちを退嬰させ、天下を取るという気象を後退させる。そのように思われた。 (蝮めはこの城を作ったときから、守成の立場にまわったのではないか) 逆にいえば道三の退嬰の気持ちが、この城を作らせたともいえなくはない。また同情的にみてやれば道三は、人生の半ばから風雲に身を投じ、その晩年にいたって、ようやく美濃一国を手に入れた。手に入れたときにはすでに自分の一生は暮れようとしていた。いきおい、守成にまわらざるをえなかったのであろう。 (おれは若い。若いおれが、これほどの金城湯池を持つ必要がない。持ては気持ちがおのずと殻にひっこむようになる。つねに他領に踏み出し踏み出しして戦う気持ちがなくなればもはや、おれはおれではない) そのような気持ちをもった。 だから信長は、岐阜城改修にあたっては、城よりもむしろ住居に力を入れた。 壮麗な居館が出来あがりつつあった。宮殿は四階建てであった。 一階には二十の座敷があり、釘隠しはことごとく黄金を用いさせてある。 二階は、濃姫の部屋を中心に侍女のための部屋がならび、座敷は金襴の布を張り、望台を作って、城下と稲葉山がみえるように工夫されている。三階は、茶事のために用い、四階は軍事上の望楼として用いられる。 「自分はポルトガル、印度、日本の各地を知っているが、これほど精工美麗な宮殿をみたことがない」 と、のちに岐阜城下にやってきた宣教師ルイス・フロイスがその書簡に書いている。 この「宮殿」は、ほぼ完成していた。信長は岐阜到着の夜、ここに泊り、翌朝、一階の大広間で光秀を謁見した。 光秀は、下座で平伏していた。 (頭髪のうすい男だな) と、ひとの身体的特徴に過敏な信長は、最初にそう思った。 (金柑に似ている) 頭が小さくてさきがとがり、地肌に赤味を帯びたつやがあって、みればみるほど金柑に似ていた。信長は好奇心に満ちた眼で、その光秀の頭だけをじっとみつめた。 少年の眼である。この信長のなかには、悪童のころのかれがつねに同居していた。 (あの頭に触りたい) とさえ思った。十年前のかれなら容赦もなく降りて行って光秀をするすると撫でたであろう。が、いまの信長はさすがにその衝撃をおさえるまでに大人になっている。 「光秀、よう来た」 と、信長は叫んだ。 光秀は作法どおりあっと肩を動かしていよいよ深く平伏した。むろん、この室町風の作法に長じた男は、信長の顔をぬすみ見るような無作法はしない。 (たいへんな声だ) と、内心思った。樹間を走り渡る猿の声にどこか似ていた。大名の子だと思った。自分の声調子を自分で抑制する必要を経験したことのない男の声である。 一見、たわけの声であった。しかし桶狭間以後、信長がやってきたことはたわけではない。 とにかく常人の声でないとすれば、 (やはり信長は天才かもしれぬ) と、光秀は思おうとした。 「物をくれたな」 例の猿の叫びが飛んできた。 「奥にもくれた。すべて佳きものだ。わしはよろこんでいる」 なまな言いかたをする男だと思った。木樵が喋っているようで、典雅とは程遠い。おそらく言葉のつかい方をしらないか、天性その能力を欠いた人物なのであろう。 「近う寄れやい」 光秀は一礼し、顔を俯せたまま腰をわずかに立て、すこし進もうとした。しかし進むふりをして進みかねているという姿で、これが室町幕府の礼法なのであった。上を畏れて萎縮しているという礼式上の演技である。 が、尾張の奉行職から成りあがった織田家にはそんな礼法などはない。 信長は光秀のその姿をめずらしそうに見つめていたが、ついに、 「そちゃ、跛(ちんば)か」 と、あふれるような好奇心でいった。
光秀は、汗が出てきた。 (このあほうめ) と思うと、こういう京風の礼儀作法をしている自分までがばかばかしくなり、「ち んばでない」ということを示すために膝を立て、すらすらと進み、畳二枚進んだあた りで平伏した。
「面をあげい」 信長は、命じた。光秀は、(もはやかまうまい)と思い、ぐっと顔をあげた。 (奥に似ている) と、信長はおもった。 ・・・・・・・ |
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