澁澤龍彦 快楽主義の哲学 昭和40年3月1日発行 光文社 KAPPA BOOKS





まえがき
泰平ムードという言葉があります。言葉だけでなくて、じつさい、そういうムードがあるらしい。

戦争が終わって二十年、だらだらと平和がつづき、日本経済は高度成長をとげ、消費文化は発達し、もうなんにも苦労の種はなくなり、もうなんにもすることがないから、それ、レジャーだ、バカンスだと、かけ声もにぎにぎしく、あほうみたいに遊びまわっている連中もあるようです。
むろん、平和がつづくのはけっこうなことであるし、遊ぶのもおおいにけっこうなことなのですが、わたしは、このムードというやつが、どうも気にくわない。しゃくにさわる。
あなただって、うまうまとムードに乗せられて、群衆とともに山へ行ったり海へ行ったり、右往左往するのほ、なんだかばかばかしいような気がしませんか。

「レジャーを楽しもう。」と大衆に呼びかけて、このムードを盛りあげようとしている張本人は、マス・コミと娯楽、観光などの余暇産業です。ムードとは、要するにだれかが作り出したムードであって、そこには快楽があるとしても、規格品の快楽があるだけです。押しつけられたムードのなかで、いかに規格品の快楽を追い求めても、むなしさが残るばかりです。

そもそもムードという言葉は、受動的で、停滞的で、ぬるま湯のなかに浸っているような、はげしい感情の起伏のない雰囲気をさす言葉でしょう。能動的な生活態度や培極的な快楽追求の姿勢とは、まるで正反対のものです。
そういえば、近ごろの若者たちのなかにも、こんな気のぬけたビールのような、ムード的な連中がふえてきたような気がするが、どんなものだろう。

戦後のある時期までは若者たちといえば、無軌道というイメージがすぐ浮かんできたほど、よかれあしかれ、エネルギーに満ちあふれたものでした。「アプレ・グール」、「太陽族」、「かみなり族」、そしてまた「全学連」が、それであります。そのころの若者たちの顔には、どことなく暗い翳があり、凶暴な目つきがあり、不敵なシニカルな層がありました。べつに悲壮感をよしとするつもりはあ。ませんが、わたしは、現在、それをなつかしく思い出します。

よくテレビ・ドラマなんかに出てくる、すなおな、従順な、まじめな、いかにもおとなから気に入られ、「いい子、いい子。」と頭を撫でられるような優等生的な青年−1そういう青年が、近ごろやたらにふえてきたことは、じつに嘆かわしい傾向だと思わないわけにはいきません。

いっほう、現代青年は「ドライだ。」とか、「割り切っている。」とか、よくいわれます。はたして、そうだろうか。
たとえは、自分の感情や欲望を殺してまで、上役に対する受けや出世コースをだいじにし、必死になって会社の椅子にかじりついているような模範的なサラリーマンは、わたしには、臆病でこそあれ、ドライだなどとは、少しも思えないのです。

「できそうもないことには最初から手を出さない。実現可能な範囲だけを、是が非でも守ってゆく」という、けちくさい現実主義が、現代青年のあいだに、幅をきかせているような気がします。
これは合理主義とかドライとかいうのでほなくて、むしろ自分の都合のよいように、自分自身の欲望をごまかし、正当化し、歪曲する怠惰の精神のあらわれだと思います。これでは、ますます視野はせまくなり、ますます理想は低くなるいっほうではありませんか。

だいぶ悪口を書きならべましたが、これから「快楽主義の哲学」を論じていくためには、まず、みなさんの精神におどLをかけることが必要だと思ったのです。
わたしの撞唱する快楽主義は、むろん、泰平ムードのレジャーなどとは、なんの関係もありません。いや、関係がないというよりも、そういうムードに抵抗するための処方箋を、わたしはわたしなりに作成したつもりなのです。
では、本文を読んでいただきます。  
一九六五年一月
澁澤龍彦
目次
まえがき
一 幸福より、快楽を
本屋の店頭をながめると、あいかわらず、『幸福論』とか『人生論』とかいう題の書物が売られています。そして、そういう本の筆者は、たいてい、大学を停年退職したおじいさんの哲学者のような人ばかりです。しかし、わたしはいつも疑問に思うのですが、新時代の言ルギtにみちあふれた若者が、そんなカビくさい「幸福論」なんぞに満足していられるのだろうか。そんな本を読んで、ますますお行儀のよい、ますます飼い馴らされた社会人になっていくのは、じつに嘆かわしいことではないだろうか。

簡単に「幸福論」などといいますが、いったい、幸福とは、何か。そんなにだいじなものなのか。そんなに貴重なものなのか。まず、それをはっきりさせてみようと思います。

     人生には、目的なんかない
     幸福は快楽ではない
     文明の発達は、人間を満足させない
     「快楽原則」の復活を
     幸福は、この世に存在しない

二 快楽を拒む、けちくさい思想

幸福という、あいまいな観念を頭から追い出してしまって、みなさんは、だいぶさっぱりしたことと思います。しかし、快楽論をはじめるまえに、ぶっつぶしてしまわなければならない観念は、まだまだ、たくさんあります。
つぎに、古くさい形式的な道徳や、お上品ぶった理想論や、はかばかしい先入鬼などを、ひとつひとつ、こっはみじんに、ぶちこわしていきたいと思う。わたしたちの頭にしみついているカどのような幻想を、きれいさっぱり、はぎ取ってしまうことが必要です。そういうことを偶像破壊といいます。
すべて道徳論をやる場合には、まず猛烈な偶像破壊をやって、わたしたちを赤裸々な現実に直面させ、この白紙の状態から、手さぐりで歩きだすことが望ましいのです。世間の人が頭から信じていることも、一度は疑ってみる必要がある。先入鬼は、いくら警戒しても警戒しすぎることはありません。

     博愛主義は、うその思想である
     健全な精神こそ、不健全である
     「おのれ自身を知れ。」とは愚の骨頂
     動物的に生きること

三 快楽主義とは、何か
ここで、いよいよ快楽主義の具体的な問題にふれます。快楽主義とは、何か。快楽を生み出すための積極的な方法とは、何か。さらに歴史的な考察、個人と社会との関係、日本と西洋との比較についても、できるだけ言及したいと考えます。
まず、個人の生存のぎりぎりの立場、死の恐怖の克服から始めたいと思う。そうして順々に、一歩一歩、高級な精神的快楽や物質的快楽の頂上まで、のぼりつめたいと思う。

     死の恐怖の克服
     退屈地獄からの脱出
     隠者の思想
     政治につばを吐きかけろ
     快楽主義の落とし穴
     好色ということ
     人工楽園と酒池肉林
     東洋的快楽主義と西洋的快楽主義

四 性的快楽の研究
ここで、セックスの快楽だけを独立させて取りあげるのは、あらゆる人間の快楽のうちで、エロチックな満足こそ、いちばん強度なものであり、かつ、いちばん根源的なものだと信じる理由があるからです。このことは、本文をお読みになれば、すぐおわかりになるでしょう。
それに、わたし自身、つねづねエロトロギア(性愛学)を哲学的に考察している人間ですので、その研究の一端を、みなさんの前に発表したいという誘惑に抗しきれないからでもあります。
まあ、自己宣伝はこれくらいにして──

     量より質を
     最高のオルガスムを
     情死の美学
     乱交の理想郷
     性感帯の拡大
     快楽主義は、ヒューマユズムを否定する

五 快楽主義の巨人たち
この章では、すぐれた快楽主義者として充実した一生を送った、歴史上の偉大な人物たち − 快楽主義の巨人たち ー について、お話しましょう。彼らはいずれも、高い知性と、洗練された美意識と、きっぱりした決断力と、エネルギッシュな行動力の持ち主でありました。この四つの条件がそろって、はじめて人間は翼を得たように、快楽主義的な宇宙の高みに舞いあがることができるのです。
みなさんは、いままで抽象的に論じられてきた快楽主義の哲学が、これらの巨人たちによって、いかに現実生活のうえで具体的に生かされたかをごらんになればよろしい。
いわば、快楽主義哲学の応用編がこれであります。

(参照:ウィキペデア)
     最初の自由人──樽の中のディオゲネス
     酔生夢死の快楽──酒の詩人 李白
     ペンは剣よりも強し──毒舌家 アレティノ
     生きる技術の名人──行動家 カザノヴァ
     リベルタンの放蕩──サドと性の実験
     調和型の人間──ゲーテと恋愛文学
     遍食動物の理想──サヴァランと美食家たち
     血と太陽の崇拝者──反逆児 ワイルド
     ユーモアは快楽の源泉──奇人 ジャリの人生
     肉体が夢をみる──コクトーとアへン
                                 

六 あなたも、快楽主義者になれる
だれだって快楽を求める、−そういうごく単純なあたりまえの事実から出発して、わたしたちは、これまで快楽主義のいろんな面を考察し、快楽主義の哲学を深く突っこみ、ついで、快楽主義の巨人たち、つまり、具体的な人間像に光をあてて、これを研究してきました。
つぎの課題は、「快楽主義のすすめ」です。

わたしは、ここで哲学者からアジテーター(扇動家) に早がわりして、おおいに、みなさんをけしかけてやろうと思う。理論のつぎには実践です。もしも、快楽主義的な生き方が、あなたにとってふさわしいものだということがおわかりになったら、即座に実行に移さなければ意味がない、と思うからです。
快楽主義を実行に移すためには、何が必要か。現代日本に生きる二人の快楽主義者の紹介とともに、その心構え、その決意について、これからお話していきたい。

     わたしの考える、快楽主義者の現代的理想像
     誘惑を恐れないこと
     一匹オオカミも辞さぬこと
     誤解を恐れないこと
     精神の貴族たること
     本能のおもむくままに行動すること
     「労働」を遊ぶこと
     レジャーの幻想に目をくらまされないこと
     結び──快楽は発見である