| 山紫会三十周年記念会参加記 |
| (昭和三十四年卒の同期生たち) |
| 稲葉八朗 |
我々が高校を出てからナント三十年になるのである。その節目の同期会開催の知らせをいただいた。 いくら当時の母校が 「今の 『開成』 とは違う」 とは言っても、やはりそれなりの入学試験を受けなければ入れない学校であったことは間違いなく、それぞれの小学校の 「以上総代」 クラスが集まっていた。 だが、おそらくはエンゲル係数がまだモノを言っていた時代で、学校情報や受験情報も今ほど氾濫していなかったためか、生徒のデキ (脳味噌の中の勉強に集中できる部分) の差も大きく、モノスゴク出来る奴もいれば、入学直後から卒業まで惨胆たる目に遭ったものもいた。 とにかく、何を教わっているのだかさっぱりわからない。 小学校の 「以上総代」 たちまちにして自信喪失。その後、暗中摸索すれども五里霧中。阿鼻叫喚のなかで七転八倒。自己嫌悪と自暴自棄。そして茫然自失のうちに、ついに大学受験がやってきた。 「開成で一生懸命やれば慶応・早稲田は大丈夫」 というのを 「行ってさえすれば」 と、お題目のような信じ方をしていた小生の仲間は無意識による集合か、商人の倅が多く、いずれも 「どうせ店を継ぐのだが、一応は大学に」 ぐらいの気持ちだったと思う。 親父が牛乳の大きな販売店をやっていて 「明治なら、社長に話してやるから心配するな」 と自信たっぷりに励ましてくれ、なんとも言えない気持ちにさせられた、という仲間もいた。 その親父は、明治大学は自分が取り扱っている明治牛乳の系列、と確信していたらしい。 しかし、なんにしても大学入試の厳しさに気がついた時は、すでに遅かったのである。 そうした時代は遥か彼方に飛び去り、今母校の名は、その生徒のほとんどが 「東大」 を受験する (しかも、当然のこととして) という恐ろしい学校として、また長年にわたりその合格者数日本一の地位を保持し続けている高校として、全国民的に熟知されている。 そして、ついには開成学園前・国鉄「西日暮里駅」まで出来た。(関係ないか?) 楽しかった時代と言うより、むしろ 「灰色の思い出」 の高校のクラス会など、あまり行きたいと思わなかったのだが、その上そうした有名校との評判を聞けば聞くほど、なんだか、元自分がいた学校ではなくなったような気がしたり、また、たいした戦功も立てないのに余計な勲章をもらったようなうしろめたさから、ますます学校への足を遠ざけていた。 今回は土肥君 (松戸出身・中一の同級・級長) や、わりによく会うので特に懐かしさはあまり感じない 「仲間」 のよっちゃん (松村吉絋君・浅草・ほかによく会う仲間には石束、益川、今橋君などがいる)がいつになく熱心に電話をくれる。 そして、やはり今まで一度も行ったことがない滝沢君 (松戸) までが、最近凝っている般若心経のせいか、「今回の集まりが、今生最後の顔合わせになるかも知れないぜ」 などと熱心に誘う。 たしか考えてみれば、今から折り返して、ついこの間の二十歳から四十八歳に至る 『あっという間の二十八年』 過ごすと、なんと七十六歳になる。 覚悟を決めて参加することにした。 初日は母校に集合。母校の食堂でまず一杯。箱根までの道中で一杯。当然箱根で一杯。帰りのバスで一杯、という嬉しい計画だそうで、それなら酔っぱらってしまえばこっちのものである。 西日暮里ができて便利になったのだが、仲間と日暮里駅から昔の通りに、「上の道」 を通って歩くことにした。 日暮里駅の上の出口に出ると、たちどころにあの頃に引き戻される。 駅の周りはほとんど変わっていない。 駅前の右手に大きな山門の寺がある。 最近はやたらに抹香臭いことを言う滝沢も、当時はこんな大きな寺なのに気が付かなかったらしい。初めて発見したような様子で 「こんなところに寺があったんだなあ」 などと言う。 たしかにどこも昔とほとんど変わっていないのだが、予想していた景色と違う。 (でも、考えてみれば、その頃からはな屋 《食堂》 やベラミ 《反対側の喫茶店》 より、お寺のほうが気になっていたとしたらかえって不気味だが・・・) 年齢の違いによる見え方の変化を実感した。 通学の道を一歩一歩じっくりと味わう。三十年ぶりの豪勢なノスタルジーの前菜が始まった。 母校の新校舎に入るのは 「初めて」 である。新校舎になった分だけ、いやな思い出もうすめられた感じがするが、それでも再度決心を固め校門をくぐり、まもなく味わうことになる 「驚きへの期待」 を持って会場に入った。 「その頃」 は団体で待っていた。 突然の再会でなく予定されたものなので、若干の心づもりもしてきたが、それでもやはり三十年ぶりとなると、予期した以上の贅沢な 「懐かしきご対面」 である。 「懐かしさ」 は快感である。 だが、こうもいちどきに大勢現われると、さて、どこから箸をつけていいかわからないバイキングの感がする。しばらくは遠くから顔を見ているだけで満足である。 だんだん中に入ってゆき、名札をみて当時の顔を思い出すとさらに興がわく。 いまだに当時の自己嫌悪を引きずっているぐらいだから、昔の顔も案外記憶に残っていて、すぐに思いだすことが出来る。愉快である。 フルネームで覚えているのもかなりいる。 記憶どおりだった奴。 予想できる範囲で、それなりの年齢のとり方をした奴。 誰だかまったくわからず、名札を見てからやっとわかり、快感を倍に高めてくれる奴。 うらやましかった奴。 生意気だった奴。 前のほうに座っていた奴。 後ろにばかり座っていた奴。(成績順に席が決められる。1番は右最後列。ビリは最前列左端) 模擬試験の成績表にいつも出ていた奴。 それを他人事のように高見の見物していた奴。 それぞれが三十年かけて磨きあげた顔で、次から次へと現われて来る。 快感も切れ間なく襲ってくる。 暫くの間は「やぁ」 と 「よぉ」 だけで十分である。 同じクラスになったことがなくて、名前を知らないまま卒業した同期生もいるが、見覚えのあるのがほとんどである。 三十年食わず嫌いを続けてきたが、やってみればなかなかの味であった。 卒業後初めて会った同期生 (順不同) 福部國弘君 中一の時近くの席。当時とまったく変わっていない。 几帳面が学生服から背広に変わった。 宿題の彫刻がいつも丁寧に作った素晴らしい出来だったのを覚えている。 蒔田君 高三の時、滝沢と三人で江戸川で泳ぎ、向 こう岸で相撲をとった。 彼の入学で上智の名前を知った。漫画の名人。 石島君 中一の同級。 色が白かった。たしか常磐線の南千住で降りたと思う。 飲んでにぎやかになるおじさんになっていた。 角谷 忠君 松戸の同期。ホントに久しぶりだが遠くからすぐにわかった。なつかしかった。 市村君 浅草出身。先生が紛れ込んでいるのかと思った。 「一体どうしたんだ」。 子供の時子供っぽかっただけに名札を見ても信じられなかったが、頭を見ずに話せば昔のまま。楽しく驚ろかせてくれた。 田原君 とても同期という気がしなかった。 幣衣破帽の旧制高校の面影を持った兄貴分という感じでいつも記憶にあった。 校歌は二番がいいと言ったのを覚えている。北千住。 貝塚君 取手。矢島君、蟹江君らと常磐線で一緒。真面目のまま。金鉱をあつかっているという。立派なスピーチだった。 相沢君 出来るように見えない出来る奴。 自分で「ダボ」と紙に書き、自分の背中にはり、先生に後ろの席の奴を殴らせた。 東大紛争の闘士の一人と聞いていたので、どんな風になったのかと思ったら、ぜんぜん変わっていない。 伊藤武司君 中二で同級。隣の席。何か貸してくれと言った時、忘れたのなら貸してやるが、持っていないのなら貸してやらない、と言われたが、当時はなんだかわからなかったことをことを覚えている。 ごっつい顔の印象があったが、今見るとそうでもない。 川路君・吉田君 美術部の二人として覚えている。 鈴木幸男君 中一の時の級長。二年ぐらい上に見えた。 出路君 慶応のアイスホッケー部で活躍したと聞いていたのでそれなりに想像していたが、健康そうに日焼けした植木屋のオッサン風になっていた。 永瀬君 ずいぶん背が伸びた。なかなかのナイスミドルぶりである。もてそうだ。 中條君 板矢君。大学以来の対面。赤尾の辞書をほとんど暗記していた三戸君も思いだす。 中根勝郎君 いいところの生意気なガキといった感じで、昔と変わらず外股で、突っ張って歩く。 武藤清志君 京浜線組。本屋の息子。いつもニコニコ、ひょうひょうとした感じだった。 髪は白くなったが、そのまま。 浅賀君 「若い時のフケ顔」は得だ。中一の時より若くなった感じだ。 伊沢君 たしか兜木君と尾久から通っていたと思う。 梅津君・水野君・福沢君・金井弥之助君 勉強が得意の組。だからあまり、口をきいたことがなかった。 もう一人の水野君 坊主頭を長く続けていた水野君。いまは見事な白髪になっていた。でもすぐわかった。 岡崎君 地味な目立たない同期生の一人。慶応の医学部で、新聞にのるような、すごい研究をしている先生だそうだ。 金盛噤次郎君 口を禁ずるとは、おしゃべりをしないといういい名前だ、と先生が言っていたことを覚えている。 難波君 石川先生の生物の授業を楽しみにしていたことを覚えている。 生物学者になっていると思っていた。 小生も石川先生の「植物学通論」を探しに、神田の本屋街を軒並み歩き、最後に本郷の古本屋で発見し感激に震えた (ついにアンチョコを手に入れた感激で) なんていう時もあったのです。 小山君 高一の時益川君と三人で箱根へ遠乗り。小生の借り物のオートバイがエンコで大磯の益川君の親戚に一泊したことがある。 佐々木有司君 中三の時、隣の机(最前列)。彼は視力のため。小生は席順のため。角ばった字とガラガラ声を覚えている。 石神君 鬼門徐けの鬼瓦風の容貌で覚えている。そのまま。 防衛医大の先生というより防大の砲術の教官といった感じだ。 久我陽亮君 とっくにツルツルになっているかと思っていたら、そのままだった。 「額」 の広いほうが案外長持ちするようである。 仁杉君 大人びて、生意気な感じだった。変わっていない。 大村君 あまり話したことはなかったが、覚えている。静かな感じのまま。 出塚君 バスの中で話をしたが、まったく見当がつかなかったが、アルバムを見たら 「当時の顔」 をすぐに思い出し、予想もつかない、あまりの変わりようにびっくりした。 生き生きと仕事に取り組んでいるようである。 久保島君 突然会ってもすぐにわかりそう。穏やかな感じのまま。変わっていない。 京成だったか。 渡辺君という白髪、長髪の眼鏡をかけた人。 ぜんぜんわからなかった一人。 通夜の席などにも時折そうした正体不明の人物が一人ぐらい紛れ込んでいるもので、その類いかと思ったが、後でじっくり見ているうちに、ひょっとしたらいたかもしれないという気になった。京浜線組だったそうだ。 安達君((箱根で) 松戸在住。相変わらずの男前を保っている。 佐藤宗弥君(箱根で) 同級はなかったが顔は思い出した。箱根で初めて口をきく。横浜国大の会計学の先生。 津山君(箱根で) 御徒町竹町の家まで行ったことがある。竹町と聞くと思い出す。真面目人間のまま。銀行の支店長で神戸から直行したそうだ。 江渕君(箱根で) あのころはなるべく目を合わせたり、近寄ったりしないようにしていた。 今も肩で風を切るおあにいさんの面影のまま。魚河岸で会ったことがある。 植松君(箱根で) 坊主頭の印象が強い。中一のころから、明るい純朴そうな田舎のおじさんといった感だったが、そのままで箱根にやって来た。 幹事の藤井君 一度も同級がなく、記憶になかった一人。 地味な静かな感じの人だが、そういう人が突如としてこうした大企画をたてるところが愉快。今回は御苦労さまでした。 (あとで出席者の一覧表を見て、もっと会場をまわれば良かったと思っている。) 市毛君 あまり話をしたことの無かったほうだが覚えている。ゆったり落ち着いた感じのまま。 今大躍進のアサヒビール再興時の中核として大奮闘したことと思う。 柳内君 顔は記憶にある。でも名前は今回初めて知った。帰りは途中まで一緒。 柘君・薮君 入れ違って記憶していた。タバコ好きになった小生は喫煙具で柘の名を知っていたが、柘君の特異なキャラクターは初めて知った。 須賀君 まったくわからなかった。楽しく驚かせてもらった。 高橋敏逸君 会場でちらっと見えたが、笑うと目が無くなりそうな顔を思い出した。 あまり話をしたことがない同期生でも、当時のこうした印象をたちどころに思い出すことが出来る。 四十八歳の脳味噌のどこかに、中学、高校の仲間は小さな細胞となって、いまだにしっかりと取り付いていたのだ。 そしておそらく、そうした細胞が今までの自分の思考や決断に (それほど大げさに言うほどのものではないが) なんらかの影響を及ぼしてきたに違いない。 そしてその媒体が 「母校」 である。 しかし、幸か不幸か、今日我が母校は、おっかさん達の夢・東大入学 (最近は週刊誌に名前までのる特別扱い) をかなえてくれることだけが強調された学校、いわゆる 「開成」 としてその名を日本中に知られてしまった。 「開成出身」 と知っただけで相手は大げさに驚き、「そのあとはどちらへ?」 とはまず聞かない。それからの経路などについては先様のほうで、勝手な想像をしてくれるのだ。 それだから 「カイセイ」 という時、なんとなくソォーッと発声してしまう。 健在な母校が、いまだに当時の気恥ずかしさや、ほろ苦い思い出や、よき教訓 (先生や同期生からの) のとりもちをしてくれるだけで十分なのに、あまりにもポピュラーになりすぎた母校は、心ひそかなノスタルジーを抱く卒業生にまで、さらに余分な気を使わせる。 しかし今回の記念会に、卒業して三十年、様々な道を通り、おそらくそれぞれの風雪を凌いできたであろう同期生は、五十まぢかの面を引っさげて集合し、互いの意気軒昂を確認し合うことが出来た。開成 「ごった煮世代」 の大集会である。 いろいろなのがいるだけに、彩りも鮮やかで、活気もある。 牛鍋の中でのねぎは、添物の感じがするが、肉だけでは出せない妙味、ヴォリュームのある 「ごった煮」 では、一品一品、それぞれが主役なのである (と思わずにはいられない)。 入学後ただちに 「恍惚と不安」 を教えた母校は、卒業後三十年を経た五十間近かのイイ親父に、今度は 「いじけと居直り」 を教えてくれる。 しばし歓談の中、当時のあらゆる機密を握っている大竹先生 (中一の担任) 井上先生 (中二・三の担任) の入場で若干冷静になる。 和気ワイワイのうちに、やがて箱根会場への出発時間となった。 東京残留組の見送りの中、アルコール燃料満載バスは、思い出すことも出来ない変わりようの母校と西日暮里駅周辺をあとに、箱根へ向かったのである。 |
| 平成元年六月 |
なにはともあれ、行ってみればかくも思う存分ノスタルジーを満喫させてくれる同期会に無理矢理引っ張り出してくれた幹事藤井君、ほか同期生皆さんの御苦労に感謝します。 山紫会ではなく正式には開成 「山紫会」、というのだそうですが、あえてそのまま山紫会、とさせてもらいました。 卒業生が母校の名前を忘れるはずがありませんから・・・ |