1977 フロリダ上空にて. 目次 


BURNSIDE−OTT aviation traning center
OPA LOCKA AIRPORT MIAMI-DATE
航空留学 入学そして試験 アクロバット飛行 (ビル・トーマス)
珍道中 クロス・カントリー ピッツ・スペシャル
ついに翼を得た フロリダ
夜間飛行 余  話
空中戦 (ごっこ) 余  話U

1975年、生まれて初めてのアメリカ旅行は、長年の外人コンプレックスを若干解消させたと同時に、はじめて英語への興味を喚起し、再度英語圏の国への旅行を計画させた。つぎは松戸の姉妹都市・オーストラリアのボックスヒル、と決め市内の英会話学校にも通い始めた。

ところがその頃航空雑誌でアメリカでの飛行免許取得の案内広告をみて、気が変わった。
考えてみればオーストラリアに行くことも、英語に接したい、という気からはじまったのだ。飛行機は子どもの時からの憧れだし、それに、飛ぶとなればいやがおうでも管制官と会話しなければならない。ならば「話さなければならないという環境」に自らを追い込む飛行学校入学は英語に接するのに最適のはずだと、スクールの日本案内所に問合せ、日本の教室で練習問題を買い込み、入学するための準備に入る。練習問題は肌身離さず、魚河岸に行く時から、トイレ、風呂の中でも辞書を片手にくいっぴきの毎日が始まった。

訓練費用も安く(当時日本では1時間2万円ほどの訓練費用だったがアメリカでは5000円ぐらい)、合理的な集中方法で短期間で免許が取得できるというアメリカの飛行学校がぼちぼち知られはじめた頃で、ハワイ、西海岸のスクールには結構日本人が行っているとのことだが、どうせ行くなら、あまり日本人がいない、したがって日本語で話す機会は少ないところ、という理由で選んだのがフロリダ・マイアミの近くにある学校だった。

1977年3月
 入学そして試験 
学校はマイアミ北部オパ・ロッカ市にある“バーンサイド・オット飛行学校”。
生徒は世界中から来ている。アメリカはもちろん、プエルトリコ、ドミニカ、スペイン、ドイツ、フランス、レバノン、・・・・・。日本からの生徒はここにも結構いた。日本人は仲間でマンションを借りているようだが、せっかく英語圏に来て日本人とばかり話していては意味がない。勉強のためにも学校の宿舎に指定されていて、ほとんどが外人学生のホテル “RunWay-Inn” を選んだ。毎朝、学校からバスが迎えに来てくれる。

当初の計画では、着いたらすぐに学科試験を受けて合格する。
あとは実施試験だが、学生時代のグライダーの訓練と、昭和40年頃、船橋ヘルスセンターのとなりにあった飛行場(中央航空)で15時間程度の訓練をうけた経験(この頃の訓練費は1時間6000円?)で操縦感覚は身についているはずだから、受験資格の40時間の飛行時間は10日ほどで済ませて(飛行記録に記載されてある昔の15時間も加算されるから、残りは25時間)、実地試験も合格し、ライセンスを取得後、1週間ぐらい思いっきりアメリカの空を楽しんで帰る・・・という約3週間の計画だった。



この時学科試験は合格し、あと25時間乗れば実地試験も受験できたのだが、仕事の都合と結婚とで、泣く泣く断念した。それから15年ほど経って、この度の決行となった。

なにはともあれ、とりあえず学科の模擬試験を受けてみる。
模擬試験は学校の中に専用の教室があり、いつでも受験でき、係のおばさんは数多い問題のなかから任意に適当なものを選んでくれ、終って提出すると、その場で4択のチェックをした解答用紙に正解の部分が穴を開けてある正解のカードをあて、その場で採点してくれる。

日本であれだけがっちり勉強してきたんだから、おそらくはすぐに合格点と思っていたのだが、現地で初めて見る問題も多く、100点満点の20点、30点!! 2度、3度と繰り返したが、なんどやっても50点も取れない!!そこには実物を見たこともない航空計器や航法の無線装置など、実際にどういうものか理解できないものがあったことにも原因があったが・・・これは予定が狂った!2週間で合格などとんでもないことになりそうだ。


4択問題 52点!

青雲の志を抱いて郷関を出たのだ!学もしならずば、死すとも帰らず、である。
予定を 1週間延長することにした。
飛行訓練から帰るとホテルの部屋に閉じこもり、食事はパンをかじりながら、学校で買った新しい問題集にむかいっぱなしの1週間となる。生涯でこれほど真剣に英語と向かい合った時はない。
学校には航法、航空法の規定を模型などで展示してある教室もあり、係の教員の話していることは完全に判らないものの、日本では本で参考書でみただけの機器の実物を見ることにより、だんだんわかるようになってきた。

練習問題集

数冊の問題集を何度もテストして、大体合格点が取れるようになり、ふたたび模擬試験を受けると、少しづつ点が上がってきて、1週間目には何度受けても合格点(70点)に達するようになったので、遂に学科試験受験を決意した。

アメリカの飛行免許の学科試験は、いつでも受験できる
ひとりひとりが勝手な時間に試験会場に入室して、そこから受験生それぞれが2時間で構造、エンジン、気象、航空法規、航法など40問(だったか?)の試験問題にむかう。もし不合格だった場合、再度同じように、いつでも受験できるが、2度続けて不合格となると、勉強不足ということで、1ヶ月は受験できない。
そうなったら計画は頓挫! 受験には決断が必要だったがなんとか合格できた。
アメリカの試験は「ふるい落とす試験」ではなく、「理解させる・免許を取らせるための試験」であることも実感した。



ソロとなり、学科試験に合格すると教官なしで夜間飛行のタッチ・アンド・ゴーの訓練ができる。
漆黒の夜空に前方を飛ぶ同じ訓練機の翼端灯、尾灯を目標にとぶ。
第一旋回クロス・ウィンド、第2旋回でダウン・ウィンド、第3旋回につづくファイナル・アプローチで滑走路と向かい合うと、滑走路のオレンジ色のライトが機を迎えてくれる。
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ネオンテトラのようなブルーの誘導路灯のきれいなこと!
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はじめはちょっと心配だったが、夜は気流が安定していて機体はほとんどゆれず、宇宙を漂っているかのようだ。
暗闇の中に飛行場のライトのほか、オパロッカの街の明かりは点々としているが、さすがにマイアミ方向はあかるい。接地してすぐに再び離陸するタッチ・アンド・ゴーを繰り返す。

管制官とのコミニュケーションも飛行場の周りを回るお決まりの用語だから、スムースで、何度も繰り返したあと、さあ、これでおしまいという時に、管制用語にはない 「Thank you GOOD NIGHT」 と付け加えると、向こうからも 「GOOD NIGhT」
・・・・・・・・いい気分だ。
  


・・・・
試験は学科試験のほかに40時間の飛行訓練が必要とされ、それをクリアしてはじめて実地試験を受けることができる。だから飛行訓練は到着したその日からはじめた。
学校には日本人教官もいたが、アメリカ人にしてもらった(教官は迷惑だったろうが・・・)。管制塔とのコンタクトは日本でも一応英語だが、とくにアメリカで受験しするのだから外人に慣れておいたほうがいいはずだ。教官は名前をドボイスといい、ボーイング727のフライトエンジニア(航空機関士)をしていたそうだが、彼もまた一つ上の資格・メジャーな航空会社のライン・パイロットを目指し、教官をしながら学んでいるとのことだった。(日本からのお土産を上げたら、自宅に食事に招待してくれた)

二人並んだ操縦席のある機内で、教官と生徒が操縦を交代する時に教官は明確に 「You have」 といって操縦桿を渡す。生徒もはっきりと 「I have」 と宣言して、操縦桿を受け取る。この明確な宣言は責任の所在をはっきりさせるもので、たんなる儀礼ではない。
そして、訓練10時間ごろだったか、ついにソロ(単独飛行)を許可される。ともあれ最初のステップにたどり着き、一人でポッカリとフロリダ上空に浮かぶことができた。
この記念すべき日の最初のソロ・フライトでの着陸の時、風向きが変わり、滑走路への進入方向の変更にちょっと慌てたことも思い出す。【飛行機は必ず風に向かって離・着陸する】)

成田空港の滑走路は1本、そして当時の国際空港・羽田でも滑走路は2本だったのに、このフロリダの田舎町のオパ・ロッカ飛行場の(一応国際空港と称しているが・・)滑走路は、3000m級も含めて、滑走路は6本!!さらに付近に訓練専門のオパ・ロッカ・west 飛行場がある!

フロリダはほとんど海抜高度で、湿地帯も多いが、飛行場からちょっとはなれた場所の1000メートルほどの上空からながめると、家がぽつりぽつりで、なかには滑走路を持った家もある。飛行機を実用品と使っているアメリカなのだ!
学校のカウンター

オパ・ロッカ飛行場には6本の滑走路があり、飛行場の周回経路も右回りと左回りがそれぞれあり、設定されている地上の目標物上空を通り管制塔から指示された滑走路に向かう。

ある時18Rの滑走路に着陸許可を受けて、下図の左方向から進入して来たところ、前方からも一機向かってくる。おかしいなと思い管制塔に確認したところ「コンティニュー アプローチ」(そのままでOK)とのことで右旋回して18Rにむけたが、前方から来た機は18Rと平行した滑走路18Lに着陸する機で、小生と同じタイミングで左旋回して、2機並んで着陸した。
こうした数多くの滑走路を持っているアメリカの飛行場ならではの面白い体験だった。
正面から来た機はコーストガード(沿岸警備隊)水陸両用機で、機体のブルーの文字とオレンジの帯が印象に残っている。




http://www.miami-airport.com/html/opa-locka_map.html

マイアミの航空図

マイアミ半島南部チャート(拡大




マイアミターミナルコントロールエリア(拡大

珍道中
 クロス・カントリー (別の飛行場への野外飛行) 
義務付けられているクロスカントリーのフライトプラン (これは別の時のフライトプラン)


ライセンス取得のためには、学科、実地試験に合格はもちろんだが、航法計画を立て、単独飛行で三角点のクロスカントリー(東京〜高崎〜水戸〜東京ほどの距離300キロぐらい?)の経験を有しなければならない。しかし、義務としてでなく、長距離の野外飛行で田舎の小さな飛行場に降りて、食事して帰る・・・などは飛行時間を大いに稼ぐことができると同時に楽しいので、フロリダ半島の南半分のあちこちにはよく行った。(メキシコ湾側には、ネイプルス【ナポリ】、ヴェニスなどというイタリアのような地名の町があった。)

せっかくフロリダまで来たんだ。どうせならもっと長い距離をと、日本では、東京〜新潟〜福島ほどの距離(600キロぐらいか?)で計画を立てた。
フロリダ〜メキシコ湾に面したセント・ピータズバーグ、タンパ国際空港の近くのウィッテッドが最初の目的地、そしてフロリダ半島を横断して大西洋側のメルボルン飛行場から戻るというコースだ。

飛行機はコンパスがその目的の飛行場の方角を示す角度で飛んでも、目的地には着かない。機首は目的地を向いていても、横風の影響を受けて流され、到着予定時間にはとんでもないところに行ってしまう。@

だから航法計算が必要で、風の向きを計算し、あらかじめ流される機首の向きを修正した角度に向けて飛ぶ。機首をあさっての方に向けて飛ぶのだ。A
その飛行方向の角度を計算する道具がコンピュータ(パソコンとはまったく関係ない)である。

航空図に目的地へ線を引き、途中に自分のチェックポイントを作り、地図に書かれた道路、山、川などを見て、到着予定時間にそのチェックポイント上にいるかを確認(かならず若干ずれる)、そこで修正して次のチェックポイントにむかう。
それを繰り返して目的地に到着・・・ということになる。うまくいくと予定時間になると地図にある町、鉄道線路、湖などが次々と現れてくる。これは快感である。

不時着地も考慮しなければならないが、フロリダは湿地帯が多く、ワニもいる、また、航空図上にあるだったか?)の印がついた飛行場は、プライベート飛行場だから、だまって降りると不法侵入者として撃たれるかもしれないから気をつけろ・・・などという注意も受けた。


さて順調に飛んでいたが、いくつか目のチェックポイントに来たとき、地図上の目標物が見当たらないことに気がついた。
目標がみあたらない!自分がどこの上空にいるのかわからない!
ロスト・ポジション・・・迷子になったのだ!!


@



A


 
コンピュータ
これに風向風速をいれ、飛ぶ角度を修正



VOLTACの表示 (VOR&TACAN)
最初は動揺した。飛行機は燃料が切れたら、道端で止まれる自動車と違って飛んでいられない。
さてと思ったが、飛行機大国アメリカには航空無線標識が数多くあり、そこから電波を飛ばしてくれ、その発信基地は航空図上に書いてある。

そこで、2つの基地の発信する電波を捉え、それぞれその角度を調べ、航空図上にラインを引くと、その交差する点が自分の現在のポジションなのだから、それを航空図上で確認して、地上の目標物を確認する。これで自分が現在どこの上空にいるのかがわかる。
航空図に書いた交点の下の地表を航空図上で確認し、自分がどこにいるのかがわかった!
嬉しさと、大きな満足とともに、ほっとした!!
わにのいる湿地帯に降りないですみそうだ。

しかし、こうした道具のなかった頃の旧海軍の戦闘機パイロットは、激しい戦闘終了後、原始的な道具一つで、“ひとりで”航法の計算をして、目標物のない海上を飛んで、あの小さな空母に帰ってきたのだ!!まさに神業である!!あらためて感動した!

はじめはどうなるかと思ったが、とにかくこの無線標識のおかげで自分のポジションがわかった。
安心したら、小便がしたくなってきた。どうしようもなくなったら、機内でするしかないが、床にはカーペットが引いてある。帰ってびしょびしょの機体を返すのはちょっと恥ずかしい。航空図を見るとアルカディアという飛行場がある。管制塔のない(無線通信ができない/しなくていい)、無舗装の飛行場のようだが、今の事情にはちょうどいい。そこに降りることにした。近づいて、吹流しを見て着陸コースを決める。

着陸してすぐに事務所に向かった。
「バイオロジカル エマージェンシー」(生物学的緊急事態発生・・・我ながらうまく言ったと思う)、と伝え、トイレに飛び込みむ。
田舎町の小さな飛行場で、50過ぎのおばさんが生徒として訓練をしているところで、教官は酒のせいか鼻の赤い、これまたいい年のおじさんだが、そのおばさん生徒がいうには「彼はエキセレントだ!」とのことだが、酔っ払って教えているような感じだ。そのおばさんの娘が日本人と結婚して、池袋に住んでいるとの事・・・

さて、ここから最初の目的地、ウィッテッドまではもうすこしの行程で、こんどは地上でコース・チェックポイントををしっかり確認して離陸した。ここから西北西にむかえばメキシコ湾にでる。そうなれば一安心だ。
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小一時間でメキシコ湾が見えてきた。いよいよ目的地だ。
ここには巨大な国際空港・セント・ピーターズバーグタンパほか、いくつかの飛行場が密集しているが()、小生の目的地はそのなかの一番小さな、ほとんど自家用機専用の飛行場だ。
そして、飛行場を発見、着陸のための経路にはいり、管制塔に機体ナンバー、現在のポジションをつたえ、着陸許可を得るべくコンタクトした。

ところが、管制塔からは「ネガティブ・インサイト(見えない)」と言ってくる。おかしいな、と思いながらも、翼を動かしたり、着陸灯をつけたり消したりして、自分の位置を知らせてもタワーからは「ネガティブ・インサイト」の繰り返しだ。ほかにも何か言ってくるが、なんだかよくわからない。飛行機はコース通りに第3旋回も終り、滑走路に向かっている。

接地点までもう少し、というところで飛行場から花火のようなものがこっちにむかって飛んでくる!
あっと思って滑走路をよくみたら、滑走路の左右は空軍の戦闘機・ファントムがぎっしり並んでいるではないか!!交信していたのは目的地の民間飛行場だったが、向かった飛行場はそれとは違う軍の飛行場だったのだ!そこで、軍の飛行場から、信号拳銃を撃たれたのだ!こりゃ、えらい事をしてしまった!!



マイクをつかみ、管制塔に「アイ ウ・リコグナイズド ウ・ロング エアポート!!」と連絡。
こんな用語は航空管制用語にはない。ウ・リコグナイズ(認識)はなんとなく覚えていた言葉で、ウ・ロング・エアポートは間違い電話番号のウ・ロング ナンバーからだが、管制官は理解したらしい。

通常飛行機にはレーダーに自分の機を映させるためのトランスポンダーというものがついていて、その認識番号で管制塔のレーダースクリーンには交信相手の場所がすぐわかるようになっているそうだが(ハイジャックされた機のナンバーは777とのこと。パイロットがハイジャッカーにわからないようにセットする)、小生の乗っている練習機にはついていなかったのだ。
管制塔のレーダーには、飛んでいる飛行機は「ただの点」として写っているのだが、どれが小生の点だかわからないのだろう。
セスナ・322○、リラックス、リラックス!」とおそらくは交信の様子から、動転しているパイロットを落ち着かせようとしてくれる。そして、そのあと、レーダーに映っている点のどれが小生のものかを知るためか、「OK、そのまままっすぐ飛べ、ターンと言ったら、南(どちらだったかは覚えていないが・・・)に旋回しろ」との連絡。
「旋回しろ!」との号令に従いそちらに向けて旋回する。
おそらくスクリーン上で、この機体がどれだか判ったのか、機首を○○度にむけろと誘導してくれる。どうやらホントの目的地が見えてきた。

タワーの親切に感動して、「テリブリー ソリー」 というと 「ドントウォーリー」・・・アメリカだ!
でも強制送還されないか心配したが、着陸して事務所に行くと事務所では交信を聞いていたらしい。ニヤニヤ笑いながら 「大変だったね・・」・・・
9・11のあとだったらそれこそほんとに大変だったと思う。ひょっとしたら撃墜されたかもしれない?)

google-earth


タワーとのコミニュケーションはすしやの符丁みたいなもので、一応決まり文句で、特に何もなければ儀礼のようなものについては、結構伝えることはできるのだが、ヒアリングが弱く、決まり文句以外をしゃべられると、聞き取れないことが多い。

あるときも、タッチ・アンド・ゴー(飛行場の周りを回る離着陸だけの訓練)をしていた時、離陸前は通常の周波数で交信するのだが、離陸すると離着陸訓練専門の周波数に変えろ、という指示があり(チェンジ your フリクエンシー)、「ラジャー、フリクエンシー チェンジ」と言って切り替えたところ、タワーから何か言ってくる。
なんだか判らないが決まりどおりに着陸前に普通の周波数に切り替えて、着陸許可をもらい(クリアー to ランド)着陸。そしてまた離陸する時、周波数変更を伝え切り替えた。ところがまた何か言ってくる。
飛行場を何週か周り、着陸し、事務所に行ったら担当教官からメモをもらった。書いてあることは、「お前の生徒は周波数を切り替えるのに、なんどもうちの飛行場の周波数に切り替えた。もうすこし英語を勉強させろ」と言う趣旨のものとの事!なんと、切り替えた周波数はとなりの町の飛行場ノースペリー飛行場の周波数だったのである。
そこで、飛行訓練以外に、英会話の訓練を受けることになった。日本人教官・夏井さんの奥さんのエリザベスさんでちょっと太めでさらに妊娠中だったが、とても可愛らしい、チャーミングな先生だ。

この学校には、中南米からの生徒も大勢いて、そのなかのベネズウェラ沖合いにある、アルバという小さな島の国から来ていたケリーという生徒と友達になり、よく一緒に飛んだが、スペイン語系の国の生徒はヒアリングはいいのだが、話すのはすごい南米なまりで、カーター大統領はカルトル、エアーポートターミナルは、エアルボルトタルミナルなとどいうせいか、管制塔からは何度も聞き返されるとの事。でも、ヒアリングのよさはうらやましく感じた。こっちは発音はあんがいいいのだが、ヒアリングがだめ・・・・・

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さて、最初の目的地ウィッテッドで気象図面をもらい(ファックスから上空天気図が打ち出される)、次の目的地メルボルン(新潟から福島県いわき程の距離か)にむかう。
事務所で、お前の飛行機はトランスポンダーがないのだから、レーダーベクターをリクエストしろ、と教えてくれた。これを頼むと、レーダースクリーンの中のこの点が問題の訓練機、ということがわかるそうだ。離陸後指示に従いお願いした。

むかう途中、前方から二機編隊のジェット機が黒い排気ガスを出しながら接近してくる。ジェット機はエンジンを絞ると排気ガスは色がつく。ちかづいてきたのは、なんと戦闘機・ファントムである!!翼をふってすれ違う。
続いて同高度のポートサイド(左舷)から今度はイースタン航空の旅客機・B707。イースタンのマークがはっきり見える。
子どもの時からのあこがれの飛行機で、アメリカを一人で飛ぶ!
いまだに鮮明な記憶である!


フロリダ半島は日本列島を北関東でぶった切り、逆さにした感じの大きさ?
第2目標のメルボルンでは女の子が移動式の、昔のガソリンスタンドにあったような手動式のタンクを運んできて給油してくれて事も記憶にある。

航空図に
オリーブブランチという名前が記載されている。これは米軍の射爆練習地で、近寄るなとのこと。オリーブの木の枝の様にコースが描かれている




ついに翼を得た!
学科試験をパスし、夜間飛行、計器だけしか見えないフードをかぶっての計器飛行、そしてクロスカントリーを終了し、つぎはいよいよ実地試験である。

途中でドボイスが次のステップに行くために辞め、訓練教官が日本人に変わった。
通常の飛行訓練のほかに夜間飛行、計器飛行、航法などの訓練をうけ、教官から、そろそろ受験しても大丈夫、というお墨付きをもらって受験を申請する。試験官はイタリア系アメリカ人でグレコというパイロットだが、奥さんは学校の美人の飛行教官で、一度訓練で同乗したことがあり、並んで操縦席についたが、肩章の付きのワイシャツがびしっと決まってホントにきれいだった。(のちにラインの旅客機のパイロットになったことを航空雑誌で知った)。

プライベート・パイロットの試験は、VFR(有視界飛行)のフライトマニューバー(旋回、急旋回、オンパイロン、アラウンドパイロン、エマージェンシー・・・・)などだけ。
風の強い日だったが、いつもより調子がよく、着陸も強い横風着陸だったが、完璧にできた・・といまでも思っている。
着陸して機から降りると「OK!」といって、Temporary Lisence (TEMPORARY AIRAMAN CERTIFICATE にサインをしてくれる。
これは本物のライセンスがくるまでの仮のものだが、これですぐに「貸し飛行機」を借りられる。ここにもアメリカを感ずる。日本で自動車の運転免許に合格しても、「免許が来ないうちに乗って、捕まると、無免許運転になって免許は取り消されます」なんていう野暮は脅しはない。

ついに翼を得た!ウィングマークを手にした!
まさに天に昇るような気分である!


テンポラリー・ライセンス

  
記念に買ったスクールのリング






あとで届いた正式の免許


オパロッカ飛行場 Runway 12

オパロッカ WEST 飛行場
dog-fight
さて翼を得るとやってみたくなるのが仲間と一緒にとぶ編隊飛行。
何ヶ所かに行ったが、あるとき空中戦ごっこをしようということになった。日本からきていた練習生と上空で待ち合わせて、編隊飛行の後わかれて追いかけっこをする。
写真はキャノネットの準広角レンズ40mm(45mm?)だったので、遠くに見えるが実際はもっと近い。

敵機発見 敵の死角から近づく 追尾 気分は坂井三郎!!

射撃は弾丸のスピードを考慮して少し前方を狙う。
セスナに機銃照準機はありません 加工画像です
急旋回


Loop(宙返り)からの引き起し



横転の途中
小生の機に一緒に乗ったのは元航空自衛隊練習生だったK君。かれは初級練習機過程を終了し、ジェット練習機 T1 にまで進んだそうだ。
航空自衛隊の訓練では、同じ失敗は2度までは許されるが、3度目にはピンク色カードを渡され、空中勤務者としての将来は断たれる。
旧日本陸海軍航空隊も、厳しい試験・身体検査をパスしあこがれの練習生となっても、苛烈な訓練を潜り抜け、ウィングマークを手にできるものはごくわずかだったそうだが、航空自衛隊はさらに厳しいらしい。

もっとも一機数千万の機材を使わせるのだから当然ではあろうが、彼もピンクカードとなって、自衛隊で成就できなかった夢をアメリカで果たすべく学校に入ってきた。いまはフロリダでパイロットの教官として、念願どおり、空を仕事場にしているそうだ。

K君はそうした経験からセスナ如きのアクロバットなどは朝飯前で、同乗して宙返りはもちろん、エルロンロール(横転)、バレルロール(樽の内側に沿ったように横転する)、インメルマンターン(第一次大戦にドイツのパイロット・インメルマン創案した有名な戦闘技術で、宙返りの頂点で横転させ、一気に高度をとる技術)、クローバーリーフ(軌跡が四葉のクローバーのようになる宙返り)、キューバンエイト、ハンマーヘッド、スナップロール(急横転)・・・・などなど、体験させてくれた。

一度ドキッとしたことがあった。
海上で小生が宙返りを打ったとき、裏返しとなった頂点では少し操縦桿緩め、エンジンを絞り、そして操縦桿を思い切りひいて円を完成するのだが、操縦桿の引きかたが足りなかったようで、通常は軌跡が○になる宙返りが筆記体の小文字のL型(縦長の楕円形)のようになってしまい、機体はぐんぐん急降下し、操縦桿は重くなり、加重をかけ無理に引き起こすと空中分解する場合もあるというセスナの制限速度をを越えそうになった。高速で急降下しているので操縦桿が重く、ひけない。ちょっと緩めたところマイナスGがかかり、機内においてあったカメラが空中に飛び上がった。コバルト色のマイアミ沖の海面はぐんぐん迫ってくる。空中分解の恐怖がよぎったが、とにかく二人で操縦桿を思いきりひいて、海面すれすれでもとに戻った。あの時のヒヤリは今も生々しく、時々思い出す。






マイアミのとなりのタミアミという町に(松戸〜東京ぐらいか?)ニュー・タミアミという飛行場があり、そこにはビル・トーマスという有名なアクロバット・パイロットがいてピッツで教えてくれるという。
セスナでタミアミにむかった。

着陸して駐機場に行くと、その一角にビル・トーマスの事務所があった。
ビル・トーマスはリー・マービンに似た中年のおじさんで、アクロバットの訓練をお願いすると、時間に余裕があったのか、OK!とのこと。
事務所内にはアメリカ空軍の有名なアクロチーム「サンダーバーズ」や海軍の「ブルー・エンジェルス」のメンバーとの交遊を示す多くの写真が飾ってある。若いメンバーは教えを請いに来ることもあったようだ。


ともあれ、体験的訓練をお願いしたところ、快く引き受けてくれた。
最初の搭乗機はシタブリアという機。これはAIRBATIC(エアロバティック【曲技飛行】)を宙返りさせて逆さに読ませて正式名称・CITABRIAとしたとのことで、愉快なネーミングで、ここにもアメリカのユーモアを感じた。
金属製のセスナと違い、布張りの機体だが、プロペラは可変ピッチという、プロペラのねじり角度の変わる高度な飛行機で、軽い機体に大きな馬力のエンジンをつけてあり、通常の曲技飛行はいとも簡単にできる。
宙返りは比較的簡単にできる曲技飛行だが、正確にもとの場所に戻ることがいかに難しいかを実感した。完全にもとの場所に戻ると、自分の機体がつくった空気の渦で、ぐらっとゆれるのだそうで、そうならない場合は完全にもとの場所に戻ったことにはならないそうだ。



自分はTシャツだと思っていたが、グンゼの丸首下着だったということが後でわかった

さて次は、目的のピッツでのアクロバット体験である。
ビッツはアクロバット専用の飛行機で、セスナの半分もない機体重量に倍以上の出力のエンジンをつけ、さらに複葉にして機体の幅を小さくし、くるくる回りやすくした高度な曲技飛行専門の有名機だ。どんな飛び方をするのだろう・・・・

乗ってくれる教官はバーバラさんという女性パイロット。アクロバット飛行ばかりしていてGをかけ続けたせいか、ほっぺたが緩んだ感じのおばさんだ。
いざという時のパラシュートをつけて、カルメ焼きのようなこわれそうな機体にそっと乗る。パラシュートでの脱出の方法も教わるが、緊急時にはまずだめだろう。おそらく機体もろともだ。
滑走路に向かう地上走行も前車輪式のセスナなどは自動車感覚で走れるが、尾車輪で頭が上がっているこの飛行機は地上だけでも難しい。
バーバラさんの操縦で離陸。軽い機体に強馬力のエンジンで、あっという間に訓練高度に上昇し、操縦桿を渡される。

セスナは常に安定した飛行をする練習機で、わからなくなったら操縦桿を離せばまっすぐの姿勢で飛んでくれる、「乗せられている」という機だが、ピッツは基本の水平直線飛行でも人間が意識して操縦しなければならない。これを無意識にできるようになるまでは、ちょっと時間がかかりそうだ。この機体を、身体の一部のように自由に操ることができたら、どんなに愉快なことだろう。でも努力だけでなく、空中における特別な感性が必要なようである。エース・パイロットのすごさを体感した。

いろいろ特殊飛行をやってもらったが、ジェットコースターの下がる時の−G、下りてから上昇する時の+Gに耐える要領で下腹に力を入れて頑張る。
後ろの教官席からバーバラさんが「大丈夫か?」と聞く。案外平気な顔をして「OK!エンジョイ!」なんていったので、「OK!今度来たときは逆宙返りをしてやる」、というが、これは考えただけでも恐ろしい。上昇からはじまる宙返りでなく、降下から始まる逆の宙返りで、操縦席は円の外側になり、バンドが切れたら体は確実に外に飛び出す、通常の飛行機の常識外の飛び方だ・・・これはちょっと恐ろしい。

体験をおわり、サインをいただき、本当に満足した幸せなひと時の記憶をあとにふたたびセスナでホーム・ベースに帰った。 


ビッツス・ペシャル 後席は女性教官・バーバラさん
追記・追悼
B・トーマスから、「NAKAさんを知っているか?」と聞かれた。NAKAさんは中さんという埼玉県に住んでいて、彼のところでピッツを習い、機体も買った猛烈なヒコーキ野郎だった。
1978年頃だったか?桶川飛行場でのエアー・ショーで、ビッツで墜落した。小生はこのショーを見に行ったが、行く途中のラジオで、桶川で小型機が墜落というニュースを聞いたが、まさか彼だとは思っても見なかったが、桶川飛行場についた時は川に墜落した機体とパイロットをを引き上げた瞬間で、いまでもあのシーンははっきりと覚えている。

2005/4/21、あのピッツ乗りで、日本のアクロバット飛行の第一人者ロック・岩崎氏もピッツで死す。

ご冥福をお祈りいたします。


フロリダ

フロリダは1819年にスペインから購入したそうで、地名もインディアンのような名前が多い。
オパ・ロッカ、パホーキー、オキチョビ湖、・・・また、砦を意味するフォートのついた地名もある。フォート・マイヤー、フォート・ローダデール(飛行機や船舶が謎の行方不明になる有名なバミューダ・トライアングルの一角で、ここから出発したグラマンの編隊が謎の行方不明になった。ウィキペディア)。
また、ヴェニス、ナポリ(ネイプルス)、メルボルン・・・・など有名リゾート地の名前をそのままつけたところもある。  

庭から海に出られる高級リゾート地
マイアミは華やかだが(といっても一度も行かなかったが・・・)、オパロッカの町には難民として流入したキューバ人や、プエルトリコ、ハイチ人などが多く棲んでいる街区もあり、だだっ広い通りと閑散とした町並みだ。キューバ料理のレストランや、強烈に甘い菓子と南米風のコーヒーをデミタスカップで飲ませてくれるスタンドもある。

しかし、メキシコ湾側には高級リゾート地域も多いようで、水路付の別荘地域などもあり、庭からヨットでメキシコ湾に出られる。夢のような地域である。
バミューダ・トライアングル


ウィキペディアにも諸説があるが、NHKスペシャル「海」シリーズ『魔の海』で紹介された、メタンハイドレート説は説得力がある。


余話
街を歩いているとき前方からおばさんが歩いてきた。すれ違う時、同じ方向によけてしまい、さらに同じ方向に戻って、まごついた時、そのおばさんが、“Shall we dance?”!!
感動した。

朝飯は飛行場に着いてから学校のスタンドでハンバーガーかホットドックとコーヒー。しかし、何日もこれだと当然飽きてきて、早起きしてホテルの近所の外食レストランにいった。
デニーズレストランのような感じで、ハンバーガー、ステーキなども大きいがイメージできるメニューが多いが、隣の席の客がおかゆのようなものをスプーンですすっている。

なんだ?ときいてみたら「グリッツ」という南部独特の食べもので、トウモロコシの粉のおかゆのようなものだとの事。まねして注文した。でもバターをいれ、塩・胡椒で味付けすると、ハンバーガーに飽きた舌には結構新鮮で、あるときから朝飯に数日続けた。(佃煮があったら最高だと思う)

グリッツの名前と味を覚えたのは、悪いことではないようで、あとになってアメリカ人との話に出すと、「グリッツ?よく知ってるね!あんなうまくないものを!」なんて顔をして、会話の導入部になる・・・・

ホテルの経営者は陽気なキューバ人で、レストランもキューバ料理。
学生宿舎になっている安宿屋、といってもプールもあったホテルで、そのレストランだからデニーズクラスとは値段も違う。しかし、味が薄く、テーブルの上においてある塩、胡椒、ハインツのケチャップ、マスタードで味付けして食べるデニーズ級レストランのアメリカ食と違い、いろいろな香辛料を使って、いかにもコックが“調理”した味付けがしてある料理には大満足した。(近所には一軒だけ大衆向きの中華レストランもあって、醤油の禁断症状はそこで解消させた)
コックもラテン系らしく陽気で、そばに来て「サンジュロー」などといって、チャンバラのまねをする。日本映画「椿三十郎」を見たようである。


オパロッカ飛行場には多くの自家用機が駐機してあり、日曜日などは家族でフライトを楽しんだり、機体の掃除をしている親子もいるが、なかには戦前の艦載機F4UやP51などを所有しているマニアも多く、機体はよく整備されていて、この日もこのF4Uコルセアは轟音を響かして飛んでいった。


操縦席はたっぷりしている。これで空中戦をするなど信じられないほど・・・

中央がF4Uのオーナー。海軍の退役軍人か




これは有名なP51ムスタング

飛行機天国アメリカには自作キットメーカーも数多くあり、第一次大戦の名機、フォッカー、ソッピース・キャメルなどのミニチュアも売っている。
マイアミからメキシコ湾のネイプルスへ飛んだとき、コース上空で自作機らしい複葉機を追い越した。
複葉、複座のクラシックプレーンで、操縦は後席で皮の飛行帽に飛行メガネをかけたご主人らしきパイロットで、前席のスカーフをかぶった年配の奥さん(とおもう)と、まさにランデブー飛行・・・・うらやましかった!!




第一次大戦のドイツの名戦闘機・フォッカーのミニチュア版のキット。あんがい安く売っている。



ウルトラ・ライトプレーン エンジンは500ccぐらい



飛行記録 フライトログ(日本から持っていったもの)



無事卒業


教官・事務所のおばさんたちのサイン



1978 セスナ172(4人乗り) 大人3名子供4名 龍ヶ崎上空

今にして思えば、よくぞ4人の子どもを家において、行かせてくれたものだと思う。
強烈な記憶だったので、飛行前のチェックから飛ぶ手順も含めて、約1ヶ月のほとんど全シーンはいまでも記憶している。
帰って何回かは龍ヶ崎で飛んだ。
(・・・がその後20年以上飛んでいない。いまでも飛ぶ気だけは満々なんだが・・・・さび付いた英会話と同じか・・・)

龍ヶ崎飛行場にはよく行き、店員を乗せて飛んだが、ある時番頭とその息子を乗せて離陸したところ、その息子は「お父さん、降りよう」という。番頭は、せっかく乗せてもらっているのになにを言うんだと言ったところ、子どもが言うには「だってドアが開いて下が見えるのが怖い」・・・
ドアが完全に閉まっていなかったので、操縦席から閉めようと思ったが、風圧でしまらない。一度着陸して、こんどはきちんと閉めてあらためて離陸した。


我が家の出入りの(老)鳶の頭(かしら)が戦争中何度か軍の飛行機に乗ったことがある、などというので、だまって飛行場に連れて行き、セスナに無理やり押し込み、浅草の観音様、小菅の刑務所、松戸・小山にある頭の自宅を空から見せたが、旋回するとき飛行機が傾くと、落ちそうだといって身体をまっすぐにしようと小生の方によってくるのには笑った。
10年前ぐらいになくなったが、いつもおかみさんにその時の話をしていたそうである。
(形見として、愛用ののこぎりと印半纏を頂いた)
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kaihoh
【追記】
船橋飛行場
昭和41年ごろだったか、船橋ヘルスセンターのとなりに小さな飛行場があり、訓練と遊覧飛行、そして不定期便を運行している中央航空という航空会社があり、そこで初めてセスナの操縦桿を握った。

当時はまだ旧陸海軍のパイロット出身の教官が多く、陸軍では加藤「隼」で有名な飛行64戦隊に所属していたという岡田さん、海法さん、偵察機で新司偵の経験者、原野さん、海軍でゼロ戦に乗っていたという香取さん、ほかに戦前の民間機出身の松井さんなどがいた。偵察機出身の原野さんから直線水平飛行を丁寧に教えていただいた記憶がある。偶然だが海法教官と乗る機会が多かった。

海法教官
は前述のような陸軍戦闘機パイロット出身でノモンハンで活躍した中島97式戦での撃墜体験もあるとのことだが、そうした経歴からは想像もできないプロ級の絵かきで、航空雑誌にもしばしば掲載されていた。
細部まで繊細に描く飛行機の油絵はリアルで、また中央航空のパンフレットでも大活躍していた漫画風のセスナのイラストには、これまた風貌からもまったく想像もできない可愛い女の子を乗せている。かようなふしぎな才能の持ち主だが、現在は地上で、プロとして飛行機のカレンダー絵で活躍しているようである。

海法さんには訓練の時間にあちこちに連れて行ってもらった。
原子力潜水艦ノーチラス(だったと思う)が横須賀港にはじめて来た時に空から見学に行ったこともある。また、九十九里海岸を車輪が波頭に触れるほどの低空で飛び、地引網をひいている漁師を腹ばいにさせたが、低空で飛ぶときはタブをアップにしておき、操縦桿を離せば、機首がすぐに上がるようにしておくということも教わった。その時の帰りにはまだ造成中の成田空港の土の滑走路にちょっと車輪をつけた。

羽田
に降りたこともある(今は降りられるかどうか?)。
船橋の飛行場は700メートルぐらいだったが、羽田の滑走路はさすがに長く、離陸していつまでたっても滑走路が離れなかったことも思い出す。

海法秀一描く 
飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)加藤部隊長搭乗の隼T型とブリストル・ブレンハイム
ブレンハイム撃墜後被弾した加藤健男中佐は機を反転させ海上にに自爆

雲上飛行
学科の航空気象で重要視されているのは前線と積乱雲。特に積乱雲はいかにも夏の雲で、見ているだけでもあきない感じだが、雲の中は上昇気流と下降気流が渦を巻いており、また、雹も含んでいて、海法さんは昔「隼」で飛び込んだことがあったそうだが、むちゃくちゃにふりまわされたが、自分の機の姿勢がどうなっているのかもわからないままに、運良く雲の下にほおり出されたが、高度500メートルほどだったそうだ。帰って見ると、暗緑色に塗ってあった隼は雹で塗装をはがされて、ジュラルミンがピカピカしていた・・・という話も聞いた。ときには大型機も空中分解させるほどのパワーがあるので、旅客機のコース上でも「・・・の方向にキュムロ・ニンバス(積乱雲)・・・」と注意するほどの存在である。
海法さんと同乗したときに、積乱雲のそばまで近寄ったが、綿のような雲上に、自分の機影が映り、その周りを丸い虹が囲んでいるのは、実にきれいだ。ドアを開け、雲の上を歩いてみたくなるような気にさせられた・・・・
霧が峰の思い出