映画 「トラ・トラ・トラ・」で三橋達也が颯爽と演じた真珠湾の立役者、源田実のもうひとつの顔

元日映カメラマン・牧島貞一氏 著作「ミッドウェー海戦」のなかで・・・
  牧島貞一氏 明治38年生
日本映画社従軍カメラマンとして空母「赤城」、「翔鶴」等に乗り組み、唯一の報道カメラマンとしてミッドウェー海戦、ソロモンの死闘のなかで、司令官、艦長、精鋭パイロットたちと語りあい、その素顔を生き生きと描いたレポートは、いまだに新鮮である。
       左は昭和42年9月23日 3版 河出書房 290円 
       右はその後に再編された光人社版 「炎の海」


牧島貞一 「ミッドウェー海戦」

牧島貞一 「炎の海」

「ミッドウェー海戦」145p

・・・・・・源田参謀が、私のすぐとなりげ腰をおろすと、
ああ、翔鶴と瑞鶴がいてくれたらなあ。こんなことにはならなかったのに・・・・」
といった。あまり大きな声ではなかったし、カッターのなかは、つぎつぎとロープをつたっておりてくる士官や、指令部付の兵隊で、ごったがえしていたので、南雲長官や参謀長には聞こえなかったかもしれないが、『海軍のホープ』『名参謀』とうたわれたこの人が、不用意にもらしたこの一言は、まるで女の泣言としか聞こえなかった。
「なんという情けないことをいうか」と私は思った。・・・・
・・・・・・・(その後に発行された光人社版 「炎の海」 ではこの一節はカットされている)



・・・この参謀は、戦闘機パイロット出身で、有名な“源田サーカス”の生みの親であった。
南雲長官の幕僚のなかには、航空参謀が二人いた。
航空甲参謀の源田中佐と、航空乙参謀の吉岡少佐の二人だったが、源田中佐は、山本五十六大将の最も信任の厚い参謀で、非常に頭のよい人だったし、吉岡少佐の上官でもあったので、源田中佐の意見が、この艦隊では、一番重要視されいていた

司令長官の南雲中将は、16年4月にはじめて第一航空艦隊の司令長官となった人で、飛行機のことは、まるっきり知らなかった。
参謀長の草鹿龍之助少将は、飛行機のことにあかるかったし、頭もよく、その上なかなかの人格者であったが、ちょっと ばく然として、雲をつかむような性格だったから、細かいことにはいっさい口をださなかった。
先任参謀の大石大佐は航海科出身で、一年前に、はじめてこの艦隊にきたので、航空作戦のことについては、ほとんど経験がなかった。

それにくらべて、源田中佐は生粋の飛行科出身であり、そのうえ、山本大将に一番信頼されている、という点からも、参謀たちは一目も、二目もおいていた。
またずばぬけて着眼点がよかったから、反対意見をのべる余地もなかったので、源田中佐の意見は、そのまま艦隊の意見として通っていた。
口の悪い兵隊なぞは、日本人特有のひがみも手伝って、この艦隊のことを「源田艦隊」と呼んでいた。



参考:ウィキペディア

・・・自身の操縦技能から重戦闘機や防弾装備を極端に嫌い、戦場からの乗員保護のための防弾装備防弾タンク設置の要望についてのメーカーとの会議においても源田は「突貫精神が足りない!」と一蹴した。(NHKスペシャル)

そうしたことから機種開発を望む航空機メーカーの意見が黙殺され、海軍機の多くは開戦時の機材の手直し程度の進化に留まったまま太平洋戦争を戦わざるを得なかった。

源田の批判者として、兵学校同期の戦闘機パイロット柴田武雄氏がいる。
柴田と源田の戦闘機の開発や運用について大論争は有名である。

また源田は自分の部隊を特攻隊にしようと画策したが、「だったらアンタをはじめとする兵学校出の者が先に行け!」と部下から叱責された。特攻は源田が考え、大西瀧治郎が実行した(戦後の慰霊祭で源田は特攻隊員の遺族に詰め寄られた)。[参考:ウィキペディア]






海戦の勝敗を決めたものは、間一髪の勝機だった
      将帥・参謀の決断の重大性を衝く(見出し)

一、おもな経過概要 (ミッドウェー海戦戦闘経緯・・・略)
二、表面的な敗因および戦訓所見
 1、索敵
 2、航空決戦(攻撃)の指導実施
0520利根四号機の敵空母発見報告を受電直後の判断処置行動
(1)山口二航戦司令官の意見具申をなるべく採用すべきだった。
(2)南雲司令部の愚拙さ
 3、航空決戦(防空)の指導実施
 4、「飛龍」の致命傷その他
三、源田艦隊壊滅の深因
 1、源田艦隊の由来と性格
 2、)「戦闘機無用論
源田艦隊壊滅という大事件の表面的直接的導火線は、前項に簡単にふれておいたとおり敵艦爆の奇襲による被弾であり、またその最大の近因は、異方向異高度から来襲する敵機を早期に発見捕捉攻撃する各種の対策がはなはだしく不備であったことにあるのだが、それが源田艦隊の最高権力者であり責任者である源田の頭脳・性格・能力等と深い深いかかわりがあることを真に知る人は少ない。

昭和8年4月、空母「龍驤」が就役するに当たり、試みの接艦が行なわれるのを筆者らが見に行ったときのことである。

着艦の割合いむずかしい89式艦攻でもピタリと合格の接艦をやっていたのに、90式艦戦だけが何回やり直しても艦尾に接近するだけで、ただの一度も接艦(飛行甲板に車輪を接すること)ができなかった。そしてそのまま「龍驤」は母港の横須賀に入港した。筆者はかたわらにいた先輩にあの90戦には誰が乗っていたんですか″と聞いたとこ、ち源田氏だ″と答えた。

筆者は、源田が昭和5年「赤城」乗組時代から何十回もの着艦経験のあることを思い浮かべ、異様な感に打たれた。そしてこの時から筆者は、源田は脳に欠陥があるのじゃなかろうか″と思うようになった。
そして源田の頭脳的欠陥が一層明確な形で大きく現われたのは、源田らが昭和10年横空分隊長(当時大尉)時代から最高潮に主唱し、昭和11年11月からの海軍航空年度において、その第一着として戦闘機関係(将来計画をも含む戦闘機数、搭乗員数、車備員数等)の約1/3削減が、兵力配備の上に実現し、昭和12年7月の日華事変勃発前まで続いた「戦闘機無用論」であった。

筆者はこれに対し、昭和10、11年および12年前期にわたり反論した。
なかんずく、従来の吹流標的より25ノットも曳航速度の多く出る、より実戦的な「高速垂下標的」を発明し、昭和12年前期に行なわれた艦隊航空戦技(射撃)に使用して多数の命中弾を得、これを連合艦隊旗艦「長門」の後甲板上で開かれた研究会場で披露して、戦闘機の射撃威力の甚大である実態を誰が目にもわかるようにするなどして、これでもタマがあたらないというのか、これでも戦闘機が無用か″と、公然と猛烈な反駁を展開したので、この「戦闘機無用論」に関しては誰よりも深刻に熟知している。

戦闘機を最も必要とする時代および諸種の情勢下に、戦闘機乗りのリーダー(?)が戦闘機の無用を主唱するとは、その頭脳内容は欠陥頭脳と呼称して差支えなかろう。

海軍を動かした大きな力
戦闘機無用論」が単なる論にとどまったのではなく、海軍兵力配備に具体化されたという歴史的事実は、その過程において海軍主脳部が同意採用したという内実を実証するものである。
はなはだ間違っていることに同意し採用したことは、当時の海軍主脳部(航空本部長山本五十六中将、同教育部最大西瀧治郎大佐等)の頭脳も当然問題視されねはならないが、当時の海軍首脳部で戦闘機のことをよく知っている者は皆無といってよかった。

釈迦は知らない罪は最も深いと言ったそうだが、知らない者は権威が無く、その力は弱いという単純な心理によって決着がつけられるのが常である。
源田の、内実は戦闘機乗りでありながら戦闘機、特にその用法を知らないという欠陥頸脳の持ち主であるのに、海軍兵学校の優秀な卒業成績(ハンモックナンバー)と、戦闘機出身であるという経歴と、戦闘機乗りらしい風貌と、頭のよさそうなシャープな言動の中に、人知れずひそんでいる大きな誤りをしでかすデッカイ力が、遂に海軍を動かした。