昭和40年ごろTBSが放映していたCBS製作のニュースドキュメント「20世紀の記録」という30分番組があった。この当時はまだビデオがなかったが、その後の再放送時(昭和50年代?)に収録したものである。.(ナレーションはTBSの新堀アナウンサー)
日程参考 光野正洋著 『日本軍の小失敗の研究』  光文社文庫 2000年2月15日発行.

昭和17年18日 真珠湾の最初の復讐 東京空襲(松戸〜日暮里上空を通過)
 “トラ!・トラ!・トラ!と「ドゥーリトル」そして、メソジスト教会
旭防空監視哨の記録
ドーリトル 日本空襲まで
 真珠湾攻撃1941年12月7日からわずか4ヶ月で計画立案 → 訓練 → 実行!!
日米開戦
1941年12月7日(アメリカ時間)
米軍首脳に東京空襲の着想浮かぶ
1942年1月の初め
真珠湾攻撃を「だまし討ち」として米国民を Remember Pearl Haber で結束させることには成功したが、その後もフィリピンからの撤退など負けっぱなしのなかで、国民を奮い立たせる作戦を検討していた米海軍のロー大佐は、ある日、飛行場の滑走路を飛行甲板に見立てて離着艦の訓練を空から見て、「陸上爆撃機を空母から発艦させ、日本本土を爆撃する」というアイデアを思いついたという。

ルーズベルト大統領、作戦の立案を命令
1月10日
大佐はこのアイディアは直ちに上層部に具申。上層部もすぐに具体案とするべく検討開始。
陸上爆撃機を空母に搭載し日本本土に接近して発艦させ、一航過で爆撃。爆撃終了後は、中国大陸に直行する計画決定。
空母への搭載可能機を航続距離、爆弾等裁量等からB25を候補に。
隊長の人選も開始。隊長を勇猛なる航空レース・パイロットでもあった・J・ドーリトル中佐を候補に・・・この間10日足らず!!
航空母艦とB25の組み合わせ、
および指揮官にJ・H・ドーリトルを決定
1月17日
 
B25の空母ホーネットからの発艦テスト
2月2日
B25部隊の編成と訓練の開始
2月3日より3月末までつづく
冒険好きで勇名をはせたジミー・ドーリトル隊長(飛行機レースでも活躍)によって、計画秘匿のまま、決死の作戦計画の隊員を応募。

隊員には作戦計画を隠したまま、短い空母の甲板から発艦させるための訓練を陸上で実施・・・隊員は計画を知らぬまま、訓練にはげむ
B25の改造作業
2月12日より1週間
航続距離をのばすための燃料タンクの増加にあわせ、防禦機銃は撤去。代わりに木製の偽装機銃・・・等の改装完了
改装されたB25はアラメダ海軍基地へ。移動中サン・フランシスコではゴールデンブリッジの下ををくぐった機もあったとか・・・(左写真 ゴールデンブリッジをくぐるB25)

機体と乗員の最終点検、空母への積み込み
3月31日
かつて日本の駐在武官だったジュリカ大佐は日本本土の爆撃目標地情報を詳しく説明。宮城を避けることを厳命。
ドーリトル隊長はジュリカ大佐が日本から貰った勲章を爆弾につける。
第16機動部隊、アラメダ海軍基地を出港
4月2日

空母ホーネットに搭載された16機の陸軍爆撃機・B-25

攻撃予定日、発艦予定地点100海里手前で日本の警備艇に発見されるが、勇猛果敢なハルゼー提督・ドーリトルは燃料すれすれを承知で攻撃決行
4月18日、午前6時30分 日本空襲の1番機(ドーリトル中佐機)発艦
松戸〜日暮里上空を通過

強風下発艦するドゥリトル機
d
陸軍、海軍の確執に最後までつきまとわれた日本軍からは生まれようもなかった「陸軍機を空母に載せ、陸軍中佐によって指揮させる」というこの作戦が太平洋戦争史に名を残すに値するものであったということに異論を挟むものいないだろう。
戦術的戦果は微々たるもの(DO-LITTLE)であったが、開戦初頭の連戦連勝のなかで、日本本土に敵は絶対に入れないと豪語していた日本軍首脳に与えたショックは極めて大きく、その動揺が山本五十六をして焦燥のなかで、あのミッドウェーに向かわせ、結果、その後の日本の行く末を決定付けた、きわめて DO-LARGE!なものであったということは多くの戦史が語るところである。

驚くべきことはこの作戦が真珠湾攻撃直後に発想され、具体的計画承認、訓練、機種改造、そして実行までわずか“4ヶ月”の間になされたことである。
真珠湾の一撃をくらった直後、アメリカのタフネスを米国民に示したこのすばやい対応の延長線は、9・11後のフセイン・イラクへの対応であろうことは十分理解できる。そして、フロンティア・スピリット以来の冒険心はその後、未知の宇宙への挑戦として伝承されている。

作戦終了後の記者会見における「どこから発艦したのか?」という記者の質問に、「シャングリラから・・・」(J・ヒルトンの小説『失われた地平線』のなかの伝説的秘境の名)、というユーモアをまじえたルーズベルト大統領の応えも歴史に刻まれた。
この会見の様子にアメリカの余裕とユーモアを理解する報道との健全な関係の一端も感ずる。
一方わが国の軍部・大本営はミッドウェーの敗戦の隠蔽からはじまる虚偽の戦果発表、報道統制をつづけ、国民は勝った勝ったのなかで、8月15日を迎えることになった。

 
日本占領下の中国各地に不時着・・・帰還した隊員の戦後の再会  「輝かしいあの日のために・・・乾杯」doolittle

tora
“トラ・トラ・トラ” と 「ドゥーリトル」・・・そしてメソジスト教会  ページトップへ
ドゥーリトル部隊の中で名古屋を空襲したデシェーザー軍曹の搭乗機は中国に不時着したうちの一機だったが、日本軍の捕虜となり、終戦を日本の捕虜収容所で迎えた。当然のことながら日本に敵意を持ち続けたが、収容所内で聖書に接し、「父よ、彼らを許したまえ、その為すところを知らざればなり・・・」に感動し、キリスト教徒となった。そしてアメリカに帰還後、神学校に入りメソジストの教宣教師として来日。牧師として日本で布教活動をはじめた。
一方、真珠湾攻撃において350機の攻撃隊を率いる総隊長だった淵田美津雄元大佐は、終戦後デシェーザーの「私は日本の捕虜でした」と「新約聖書」に接し、キリスト教徒となり、日本国内のみならず、全米において布教活動に入ることとなる。

デシェーザー氏との対面 (↑より)



「真珠湾攻撃総隊長の回想」 淵田美津雄自叙伝より 講談社 2007年12月発行

別の淵田美津雄伝
 自伝にはなかった艶福家であったそうだ

ページトップへ