清
母が死んでから清は愈おれを可愛がった。・・・
・・・これはずっと後のことだが金を三円ばかり貸してくれたことさえある。
なにも貸せと云った訳ではない。向うで部屋ヘ持って来て御小遣がなくてお困りでしょう、御使いなさいと云ってくれたんだ。
おれは無論いらないと云ったが、是非使えと云うから、借りて置いた。
実は大変嬉しかった。
その三円を蝦蟇口ヘ入れて、懐ヘ入れたなり便所に行ったら、すぽりと後架の中へ落してしまった。
仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話たところが、清は早速竹の棒を捜してきて、取って上げますと云った。
しばらくすると井戸端でざあざあ音がするから、出て見たら竹の先へ蝦蟇口の紐を引き懸けたのを水で洗っていた。
それから口をあけて壱円札を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。
清は火鉢で乾かして、これでいいでしょうと出した。
ちょっとかいでみて臭いやと云ったら、それじゃ御出しなさい、取り換えて来て上げますからと、どこでどう誤魔化したか札の代りに銀貨を三円持って来た。
この三円は何に使ったか忘れてしまった。
今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
※
贔屓目は恐ろしいものだ。
清はおれを以て将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。
その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人で決めてしまった。
こんな婆さんに逢っては叶わない。自分が好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いな人はきっと落ち振れるものと信じている。
松山へ
陸へ着いた時も、いの一番に飛び上がって、いきなり、磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。
小僧は茫やりして、知らんがなの、と云った。
気の利かぬ田舎ものだ。猫の額程な町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。
※
・・・部屋へ帰って待っていると、夕べの下女が膳を持って来た。
盆を持って給仕をしながら、やににやにや笑っている。
失敬な奴だ。顔の中をお祭りでも通りゃしまいし。・・・
校長 (たぬき)
・・・校長の云う様にはとても出来ない。
おれみた様な無鉄砲なものをつらまえて、生徒の模範になれの、一校の師表と仰がれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及ぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。
そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へ来るもんか。・・・
※
・・・だまされて来たのだとあきらめて、思い切りよく、ここで断って帰っちまおうと思った。
宿屋へ五円やったから財布の中にはなにがししかない。九円じゃ東京までは帰れない。茶屋代なんかやらなければよかった。惜しい事をした。
然し九円だって、どうにかならない事はない。
旅費は足りなくなっても嘘をつくよりましだと思って、到底あなたの仰ゃる通りにゃ、出来ません、この辞令は返しますと云ったら、校長は狸のような眼をぱちつかせておれの顔を見ていた。
やがて、今のは只希望である、あなたが希望通り出来ないのはよく知っているから心配しなっくってもいいと云いながら笑った。そのくらい知ってるなら、始めから威嚇さなければいいのに。
※
・・・念の入ったのは差し出した辞令を受け取って一応拝見をしてそれを恭しく返却した。
まるで宮芝居の真似だ。
うらなり君 (古賀君)
・・・大概顔の蒼い人は痩せているもんだがこの男は蒼くふくれている。
昔し小学校へ行く時分、浅井の民さんと云う子が同級生にあったが、この浅井のおやじがやはり、こんな色つやだった。
浅井は百姓だから、百姓になるとあんな顔になるかと清に聞いてみたら、そうじゃありません。あの人はうらなりの唐茄子ばかり食べるから、蒼くふくれるんですと教えてくれた。
それ以来蒼くふくれた人を見れば必ずうらなりの唐茄子を食った酬だと思う。
山嵐 (堀田)
これは逞しい毬栗坊主で、叡山の悪僧と云うべき面構えである。
人が叮嚀に辞令を見せたら見向きもせず、やあ君が新任の人か、些と遊びに来給えアハハハと云った。
何がアハハハだそんな礼儀を心得ぬ奴の所へ誰が遊びに行くものか。・・・
野だいこ
画学の教師は全く芸人風だ。
べらべらした透綾の羽織を着て、扇子をぱちつかせて、御国はどちらでげす、え?
東京?
そりゃ嬉しい、御仲間ができて・・・・・・私もこれで江戸っ子ですと云った。
こんなのが江戸っ子なら江戸に生まれたくもないもんだと心中に考えた。
初の教場
・・・生徒がわあと囃した。
その中に出来ん出来んと云う声が聞こえる。
箆棒め、先生だって、出来ないのは当たり前だ。出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。
そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へ来るもんかと控所ヘ帰ってきた。
骨董屋
・・・あなたも御見受け申すところ大分御風流でいらっしゃるらしい。ちと道楽に御始めなすっては如何ですと、とんでもない勧誘をやる。
二年前ある人の使いに帝国ホテルへ行った時は錠前直しと間違えられた事がある。
ケットを被って、鎌倉の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。
その外今日まで見損なわれた事は随分あるが、まだおれをつらまえて大分御風流でいらっしゃると云ったものはない。
大抵はなりや様子でも分る。
風流人なんて云うものは、画を見ても、頭巾を被るか短冊を持ってるものだ。
風呂
天麩羅そば
ある日の晩大町という所を散歩していたら郵便局の隣りに蕎麦とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。
おれは蕎麦が大好きである。
東京に居った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香いをかぐと、どうしても暖簾がくぐりたくなった。
今日まで数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。
序でだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。
見ると看板程でもない。東京と断わる以上はもう少しは綺麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法きたない。
畳は色が変わって御負に砂でざらざらしている。
壁は煤で真黒だ。天井はランプの油烟で燻ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮める位だ。
只麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。何でも古いうちを買って二三日前から開業したに違なかろう。
ねだん付けの第一号に天麩羅とある。
おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。
するとこの時まで隅の方に三人かたまって何かつるつる、ちゅちゅ食ってた連中が、ひとしくおれの方を見た。部屋が暗いので、一寸気がつかなかったが顔を合わせると、みんな学校の生徒である。
先方で挨拶をしたから、おれも挨拶をした。その晩は久しぶりに蕎麦を食ったので、旨かったから天麩羅を四杯平げた。
翌日何の気もなく教場ヘ這入ると、黒板一杯位な大きな字で、天麩羅先生と書いてある・・・・
※
・・・次の教場へ出ると一つ天麩羅四杯也。但し笑う可らず。と黒板にかいてある。
さっきは別に腹も立たなかったが今度は癪に障った。冗談も度を過ごせばいたずらだ。
焼餅の黒焦の様なもので誰も賞め手はない。
田舎者はこの呼吸が分からないからどこまでも押して行っても構わないと云う了見だろう。
※
・・・一時間もあるくと見物する町もない様な狭い都に住んで、外に何にも芸がないから、天麩羅事件を日露戦争の様に触れ散らかすんだろう。
憐れな奴等だ。
子供の時から、こんなに教育されるから、いやにひねっこびた、植木鉢の楓みた様な小人が出来るんだ。
無邪気なら一所に笑ってもいいが、こりゃなんだ。
子供の癖に乙に毒気を持っている。
宿直
学校には宿直があって、職員が代る代るこれをつとめる。但し狸と赤シャツは例外である。
何でこの両人が当然の義務を免れるのかと聞いてみたら、奏任待遇だからと云う。
面白くもない。
月給は沢山とる、時間は少ない、それで宿直を逃れるなんて不公平があるものか。
勝手な規則をこしらえて、それが当たり前だと云う様な顔をしている。
好くもまああんなに図迂々々しく出来るものだ。
※
・・・田舎だけあって秋がきても、気長に暑いもんだ。
生徒の賄を取り寄せて晩飯を済ましたが、まずいには恐れ入った。
よくあんなものを食って、あれだけ暴れられたもんだ。
※
宿直をして、外ヘ出るのはいい事だか、悪い事だかしらないが、こうつくねんとして重禁固同様な憂目に逢うのは我慢の出来るもんじゃない。
※
・・・学校まではこれから四丁だ。訳はないとあるき出すと、向うから狸が来た。
・・・擦れ違った時おれの顔を見たから、一寸挨拶をした。
すると狸はあなたは今日は宿直ではなかったですかねえと真面目くさって聞いた。
無かったですかねえもないもんだ。二時間前おれに向かって今夜は始めての宿直ですね。ご苦労様。と礼をいったじゃないか。
校長なんかになるといやに曲がりくねった言葉を使うもんだ。
※
・・・法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、・・・
バッタ
「バッタたこれだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云うと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。
「箆棒め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まえてなもした何だ。
菜飯は田楽の時より外に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」と云った。
いつまで行ってもなもしを使う奴だ。
※
・・・けちな奴等だ。
自分で自分のした事が云えないくらいなら、てんで仕ないほうがいい。証拠さえ挙がらなければ、しらを切る積りで図太く構えていやがる。・・・
いたずらと罰はつきもんだ。
罰があるからいたずらも心持よく出来る。
いたずらだけで罰は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの国に流行ると思ってるんだ。
金は借りるが、返す事は御免だと云う連中はみんな、こんな奴等が卒業してやる仕事に相違ない。
全体中学校へ何しに這入ってるんだ。
学校へ這入って、嘘を吐いて、誤魔化して、陰でこせこせ生意気な悪いいたずらをして、そうして大きな面で卒業すれば教育を受けたもんだと勘違いをしていやがる。
話せない雑兵だ。
※
・・・おれは勇気のある割合に智慧が足りない。
こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負ける積りはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。
江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。
宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけ様がなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。
これでも元は旗本だ。・・・
※
おれは五十人余りを相手に約一時間ばかり押問答をしていると、ひょっこり狸がやって来た。
あとから聞いたら、小使が学校に騒動がありますって、わざわざ知らせに行ったのだそうだ。
これしきのことに、校長を呼ぶなんて意気地がなさ過ぎる。
それだから中学校の小使いなんぞをしてるんだ。
※
校長は一と通りおれの説明を聞いた。
生徒の言草も一寸聞いた。
追って処分するまでは、今まで通り学校へ出ろ。早く顔を洗って、朝飯を食わないと時間に間に合わないから、早くしろと云って寄宿生をみんな放免した。
手温るい事だ。おれなら即席に寄宿生をことごとく退校してしまう。
こんな悠長な事をするから生徒が宿直員を馬鹿にするんだ。
その上おれに向かって、あなたも御心配で御疲れでしょう、今日は御授業には及ばんと云うから・・・
赤シャツ
・・・赤シャツは気味の悪い様に優しい声を出す男である。まるで男だか女だか分りゃしない。
男なら男らしい声を出すもんだ。
ことに大学卒業生じゃないか。
物理学校でさえおれ位な声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
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ターナー島(野だいこ命名)
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釣り
一体釣りや猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生をして喜ぶ訳がない。
魚だって、鳥だって殺されるより生きているほうが楽に極まっている。
釣りや猟をしなければ活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮らしている上に、生き物を殺さなくちゃ寝られないなんて贅沢な話だ。
※
マドンナだろうが、小旦那だろうが・・・
・・・人に分からない事を言って分からないから構やしませんてえ様な風をする。
下品な仕草だ。
これで当人は私も江戸っ子でげすなどと云っている。・・・
※
・・・浮がなくって釣りをするのは寒暖計なしで熱度をはかる様なものだ。
・・・そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何もかからない。
・・・教頭、残念な事をしましたね。今のは慥かに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭の御手際でさえ逃げられちゃ、今日のは油断出来ませんよ。
しかし逃げられても何ですね。浮と睨めくらをしている連中よりはましですね。
丁度歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。
・・・おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。広い所だ。鰹の一匹位義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
赤シャツと野だいこのひそひそ話
一番槍は御手柄だがゴルキじゃ、と野だが又生意気を云うと、ゴルキと云うと露西亜の文学者みた様な名だねと赤シャツが洒落た。
・・・ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう。
一体この赤シャツはわるい癖だ。誰を捕まえても片仮名の唐人の名を並べたがる。
人にはそれぞれ専門があるものだ。
おれの様な数学の教師にゴルキだか車力だか見当がつくものか、・・・
※
・・・赤シャツは時々帝国文学とか云う真赤な雑誌を学校へ持って来て難有そうに読んでいる。
山嵐に聞いてみたら、赤シャツの片仮名はみんなあの雑誌から出てるんだそうだ。
帝国文学も罪な雑誌だ。
※
・・・野だの様なのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、稜雲閣ヘ乗ろうが、到底寄り付けたものじゃない。
おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけ御世辞を使って赤シャツを冷やかすに違いない。
江戸っ子は軽薄だと云うが成程こんなものが田舎巡りをして、私は江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。
※
・・・エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって・・・・・・と野だが振り返った時、おれは皿の様な眼を野だの頭の上に浴びせ掛けてやった。
野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、これは降参だと首を縮めて、頭を掻いた。
何という猪口才だろう。
※
赤シャツはホホホホと笑った。
別段おれは笑われる様な事を云った覚えはない。
今日只今に至るまでこれでいいと堅く信じている。
考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思う。
わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。
たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。
それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。
いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。・・・
※
・・・単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。
清はこんな時に決して笑った事はない。大に感心して聞いたもんだ。
清の方が赤シャツより余っ程上等だ。
※
野だは大嫌だ。
こんな奴は沢庵石をつけて海の底へ沈めちまう方が日本の為だ。
※
・・・判然とした事は云わないから、見当はつきかねるが、何でも山嵐がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。それならそうと確乎断言するがいい、男らしくもない。・・・
・・・教頭なんて文学士の癖に意気地のないもんだ。
陰口をきくのでさえ、公然と名前が云えない位な男だから、弱虫に極まっている。
弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女の様な親切ものなんだろう。
親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う。
※
・・・それにしても世の中は不思議なものだ、虫の好かない奴が親切で、気の合った友達が悪漢だなんて、人を馬鹿にしている。
大方田舎だから万事東京のさかに行くんだろう。
物騒な所だ。今に火事が氷って、石が豆腐になるかもしれない。
氷水代 壱銭五厘
・・・然し一銭だろうが五厘だろうが詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持がよくない。
※
・・・おれは清から三円借りている。
その三円は五年経った今日までまだ返さない。
返せないんじゃない、返さないんだ。
清は今に返すだろうなどと、苟にもおれの懐中ををあてにしてはいない。
おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしない積だ。
こっちがこんな心配をすればする程清の心を疑る様なもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。
返さないのは清を踏みつけるのじゃない。
清をおれの片破れと思うからだ。
・・・たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うを一と角の人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。
割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
無位無官でも一人前の独立した人間だ。
独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊い御礼と思わなければならない。
おれはこれでも山嵐に1銭五厘奮発させて百万両より尊い返礼をした気でいる。・・
※
・・・うちを出る時から、湯銭の様に手の平に入れて一銭五厘、学校まで握って来た。
おれは膏っ手だから、開けて見ると一銭五厘が汗をかいている。・・・
※
すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱を突いて、あの盤台面をおれの鼻の側面へ持って来たから・・・君昨日帰りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。まだ誰にも話してやしますまいねと云った。
女の様な声を出すだけに心配性な男と見える。
※
赤シャツも赤シャツだ。
山嵐と名を指さないにしろ、あれ程推察のできる謎をかけて置きながら、今更その謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。
元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬を削ってる最中へ出て堂々とおれの肩を持つべきだ。
それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つと云うもんだ。
※
おれは教頭に向かって、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判する積りだと云ったら、赤シャツは大に狼狽して、君そんな無法なことをしちゃ困る。僕は堀田君の事に就いて、別段君に何も明言した覚えはないんだから・・・
赤シャツの歩き方
・・・赤シャツは歩き方から気取っている。
部屋の中を往来するのでも、音を立てない様に靴の底をそっと落す。音を立てないであるくのが自慢になるもんだとは、この時から始めて知った。
泥棒の稽古じゃあるまいし、当たり前にするがいい。・・・
会議
・・・おれは別に恥ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡わしてやった。
みんなが驚いているなかに野だだけは面白そうに笑っていた。
おれの大きな眼が、貴様も喧嘩をする積りかと云う権幕で、野だの干瓢づらを射貫いた時に、野だは突然真面目な顔をして、大につつしんだ。・・・
・・・会議と云うものは生まれて始めてだから頓と容子が分からないが、職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏めるのだろう。
纏めると云うのは黒白の決しかねる事柄に就いて云うべき言葉だ。
この場合の様な、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰しだ。
誰が何と解釈したって異説の出よう筈がない。
こんな明白なのは即座に校長が処分してしまえばいいのに、随分決断のない事だ。
校長ってものが、これならば、何の事はない、煮え切らない愚図の異名だ。
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うらなり君
・・・学校へ出てうらなり君程大人しい人は居ない。めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。
おれは君子と云う言葉を書物の上で知っているが、これは字引にあるばかりで、生きているものではないと思っていたが、うらなり君に逢ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。
バッタ事件の後始末
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・・・狸は例の通り勿体ぶって、教育の生霊と云う見えでこんな意味の事を述べた。
「学校の職員や生徒に過失のあるのは、みんな自分の寡徳の致すところで、何か事件がある度に、自分はよくこれで校長が勤まるとひそかに慙愧の念に堪えんが、不幸にして今回も・・・善後策についての腹蔵のない事を参項の為に御述べ下さい」
・・・成程校長だの狸だのと云うものは、えらい事を云うもんだと感心した。
こう校長が何もかも責任を受けて、自分の咎だとか、不徳だとか云う位なら、生徒を処分するのは、やめにして、自分から先に免職になったら、よさそうなもんだ。
そうすればこんな面倒な会議なんぞを開く必要がなくなる訳だ。
※
人の尻を自分で背負い込んで、おれの尻だ、おれの尻だと吹き散らかす奴が、どこの国にあるもんか、狸でなくっちゃ出来る芸当じゃない。
※
成程狸が狸なら、赤シャツも赤シャツだ。
生徒があばれるのは、生徒が悪いんじゃない教師が悪いんだと公言している。
気狂が人の頭を撲り付けるのは、撲られた人がわるいから、気狂がなぐるんだそうだ。
難有い仕合せだ。
・・・この様子じゃ寝頚をかかれても、半ば無意識だって放免する積だろう。
※
・・・おれの癖として、腹が立ったときに口をきくと、二言か三言で必ず行き塞ってしまう。
・・・一寸腹案を作ってみようと、胸のなかで文章を作ってる。
すると前に居た野だが突然起立したには驚ろいた。野だの癖に意見を述べるなんて生意気だ。
野だは例のへらへら調で「・・・・・・・」と云った。
野だの云う事は言語はあるが意味がない。
漢語ををのべつに陳列するぎりで訳が分からない。
分かったのは徹頭徹尾賛成致しますと云う言葉だけだ。
※
・・・すると右隣に居る博物が「生徒がわるい事もわるいが、あまり厳重な罰などをすると却って反動を起こしていけないでしょう。やっぱり教頭の仰しゃる通り、寛な方に賛成します」と弱い事を云った。
・・・忌々しい、大抵のものは赤シャツ党だ。
こんな連中が寄り合って学校を立てていりゃ世話はない。・・・
山嵐の演説
すると今までだまって聞いていた山嵐が奮然として、起ち上がった。
野郎また赤シャツ賛成の意を表するな、・・・
「・・・この短い二十日間に於て生徒は君の学問人物を評価し得る余地がないのであります。・・・教育の精神は単に学問を授けるばかりでない、高尚な、正直な、武士的元気を鼓吹すると同時に、野卑な、軽躁な、暴慢な悪風を掃蕩するにあると思います。もし反動が恐ろしいの、騒動が大きくなるのと姑息な事を云った日にはこの弊風はいつ矯正出来るかも知れません。かかる弊風を杜絶するためにこそ吾々はこの学校に職を奉じているので、これを見逃す位なら始めから教師にならん方がいいと思います。・・・寄宿生一同を厳罰に処する上に、当該教師の面前に於て公に謝罪の意を表せしむるのを至芸の所置と心得ます」
※
おれが何か云いさえすれば笑う。
つまらん奴等だ。
貴様等これ程自分のわるい事を公にわるかったと断言出来るか。出来ないから笑うんだろう。
たぬきの話
・・・それはあとから話すが、校長はこの時会議の引継ぎだと号してこんな事を云った。
生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などの出入しない事にしたい。尤も送別会などの節は特別であるが、単純にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい・・・たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの・・・と云いかけたらまた一同が笑った。
※
・・・蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみた様な食い心棒にゃ到底出来っ子ないと思った。
それならそれでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文してから雇うがいい。
だんまりで辞令を下げて置いて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪な御布礼を出すのは、おれの様な外に道楽のないものに取っては大変な打撃だ。
赤シャツの意見
・・・すると赤シャツが又口を出した。
「元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして、単に物質的の快楽ばかり求める可きものでない。その方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼす様になる。然し人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地では到底暮らせるものではない。それで釣りに行くとか、文学書を読むとか、又は新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくっては行けない・・・」
だまって聞いていると勝手な熱を吹く。
沖へ行って肥料を釣ったり、ゴルキが露西亜の文学者だったり、馴染みの芸者が松の下に立ったり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を飲み込むのも精神的娯楽だ。
そんな下らない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。・・・
※
その夜から荻野の家の下宿人となった。
・・・世の中はいかさま師ばかりで、御互に乗せっこをしているのかも知れない。
いやになった。
世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並にしなくちゃ、遣り切れない訳になる。
巾着切りの上前をはねなけりば三度の御膳が戴けないと、事が極まればこうして、生きているのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊っちゃ先祖に済まない上に、外聞が悪い。
考えると物理学校などへ這入って、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本にして牛乳屋でも始めればよかった。
下宿の婆さん
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「赤シャツと山嵐たあ、どっちがいい人ですかね」
「山嵐て何ぞなもし」
「山嵐と云うのは堀田の事ですよ」
「そりゃ強い事は堀田さんの方が強そうじゃけれど、然し赤シャツさんは学士さんじゃけれ、働きはあるほうぞな、もし。それから優しい事も赤シャツさんの方が優しいが、生徒の評判は堀田さんの方がええというぞなもし」
「つまり何方がいいんですかね」
「つまり月給の多い方が豪いのじゃろうがなもし」
これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。
・・・見ると今夜も薩摩芋の煮つけだ。
・・・天麩羅蕎麦を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、教育者はつらいものだ。
禅宗坊主だって、これよりは口に栄耀をさせているだろう。
清の手紙
・・・取り上げて見ると清からの手紙だ。・・・
・・・開いてみると非常に長いもんだ。
坊ちゃんの手紙を頂いてから、すぐに返事をかこうと思ったが、生憎風邪を引いて一週間ばかり寝ていたもんだから、つい遅くなって済まない。その上今時のお嬢さんの様に読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのに余っ程骨が折れる。甥に代筆を頼もうと思ったが、折角あげるのに自分でかかなくちゃ、坊ちゃんに済まないと思って、わざわざ下書きを一返して、それから清書した。清書をするには二日で済んだが、下書きをするのに四日かかった。読みにくいかもしれないが、これでも一生懸命に書いたのだから、どうぞ仕舞まで読んでくれ。・・・
・・・と云う冒頭で四尺ばかり何やらかやら認めてある。
成程読みにくい。字がまずいばかりではない。
大抵平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読をつけるのに余っ程骨が折れる。
おれは焦っ勝ちな性分だから、こんなに長くて、分かりにくい手紙は五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは真面目になって、始から終まで読み通した。・・・・
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・・・坊ちゃんは竹を割ったような気性だが、只肝癪が強すぎてそれが心配になる。
・・・ほかの人に無暗に渾名なんか、つけるのは人に恨まれるもとになるから、やたら使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。
・・・田舎者は人がわるいそうだから、気をつけて、苛い目に遭わないようにしろ。
・・・気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷をして風邪を引いてはいけない。坊ちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次ぎには責めてこの手紙の半分位の長さのを書いてくれ。
・・・宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか。田舎へいって頼りになるのは御金ばかりだから、なるべく倹約して、万一の時に差支えない様にしなくっちゃいけない。
・・・御小遣がなくて困るかも知れないから、為替で十円あげる。
・・・先達て坊ちゃんからもらった五十円を、坊ちゃんが、東京へ帰って、家を持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けて置いたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。・・・
成程女というものは細かいものだ。・・・・・
・・・清の心配は察しないでもないが、清の注文通りの手紙をかくのは三七日の断食よりも苦しい。
停車場で
・・・ベンチへ腰を懸けて、敷島を吹かして居ると、偶然にもうらなり君がやって来た。
おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君が猶更気の毒になった。
平常から天地の間に居候している様に、小さく構えているのが如何にも憐れに見えたが、今夜は憐れどころの騒ぎではない。・・・
・・・世の中には野だみた様に生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。
山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本が困るだろうと云う様な面を肩の上へ載せている奴も居る。
そうかと思うと、赤シャツ様にコスメチックと色男の問屋を以って自ら任じているのもある。
教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの狸もいる。
皆々それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生の様に在れどもなきが如く、人質に取られた人形の様に大人しくしているのは見た事がない。
マドンナ
・・・おれは美人の形容などが出来る男ではないから何にも云えないが全く美人に相違ない。
何だか水晶の玉を香水で暖ためて、掌ヘ握って見たような心持がした。
※
・・・赤シャツのあとからマドンナとマドンナの御袋が上等へ這入り込んだ。
うらなり君は活版で押した様に下等ばかりへ乗る男だ。
※
・・・北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、門の突きあたりが御寺で、左右が妓楼である。
山門の中に遊郭があるなんて、前代未聞の現象だ。・・・
※
・・・門の並びに黒い暖簾をかけた、小さな格子窓の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。
丸提灯に汁粉、御雑煮とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端に近い一本の柳の幹を照らしている。食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
食いたい団子の食えないのは情けない。
然し自分の許婚が他人に心を移したのは、猶情けないだろう。うらなり君の事を思うと、団子は愚か、三日ぐらい断食しても不平はこぼせない訳だ。
※
・・・うつくしい人が不人情で、冬瓜の水脹れの様な古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。
淡白だと思った山嵐は生徒を煽動したと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼るし、厭味で練りかためた様な赤シャツが存外親切で、おれに余所ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化したのかと思うと、古賀のほうが破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。・・・
・・・どう考えても宛にならない。
こんなことを清にかいてやったら定めて驚くことだろう。
箱根の向うだから化物が寄り合ってい入るんだと云うかも知れない。
※
・・・赤シャツの様なやさしいのと、親切なのと、高尚なのと、琥珀のパイプを自慢そうに見せびらかすのは油断が出来ない。
めったに喧嘩も出来ないと思った。
喧嘩をしても回向院の相撲の様な心持のいい喧嘩は出来ないと思った。
※
・・・会議の時に金壷眼をぐりつかせて、おれを睨めた時は憎い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声よりはましだ。・・・
うらなり君の転勤先
赤シャツの云うところによると船から上がって、一旦馬車に乗って、宮崎へ行って、宮崎から又一日車へ乗らなくっては着けないそうだ。
名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。
猿と人とが半々に住んでいる様な気がする。
ふたたび下宿屋の婆さんと
「・・・それでおれの月給を上げるなんて、不都合なものがあるものか。上げてやるったって、誰が上がって遣るものか」
「先生は月給が御上りるのかなもし」
「上げてやるって云うから、断ろうと思うんです」
「何で、断るのぞなもし」
「何でも御断りだ。御婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げてくれたら、大人しく頂いて置く方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。腹立てた為にこないな損をしたと悔やむのが当たり前じゃけれ、お婆の言う事を聞いて、赤シャツさんが月給を上げてやろと御言いたら、難有う受けて御置なさいや」
「年寄の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給が上がろうと下がろうとおれの月給だ」
婆さんはだまって引っ込んだ。
爺さんは呑気な声を出して謡をうたっている。・・
うらなり君転勤
・・・転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳ねるなんて不人情なことが出来るものか。
当人がもとの通りでいいと云うのに延岡下りまで落ちさせるとは一体どう云う了見だろう。
太宰権帥でさえ博多近辺で落ちついたものだ。
河合又五郎だって相良でとまってるじゃないか。・・・・
※
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任すると云う話でしたからで・・・」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです。ここに居たいんです。もとの月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃ誰から御聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんの御母さんから聞いたのを今日僕に話たのです」
「じゃ下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「まあそうです」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたの仰ゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云う様に聞こえるが、そう云う意味に解釈して差支えないでしょうか」
おれは一寸困った。
文学士なんてものはやっぱりえらいもんだ。
妙なところへこだわって、ねちねち押し寄せてくる。・・・
※
・・・相手がこう云う巧妙な弁舌を揮えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐れ入って引き下がるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中で親切な女みた様な男だと思い返した事はあるが・・・・
・・・議論のいい人が善人とはきまらない。
遣り込められる方が悪人とは限らない。
表向は赤シャツの方が重々尤もだが、表向がいくら立派だって、腹の中まで惚れさせる訳にはいかない。
金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。
中学の教頭位な論法でおれの心がどう動くものか。
人間は好き嫌いで働くものだ。
論法で働くものじゃない。
うらなり君の送別会
・・・会場は花晨亭と云って、当地で第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷を買い入れて、そのまま開業したと云う話だが、成程見懸からして厳しい構だ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織を縫い直して、胴着にする様なものだ。
※
・・・床の真中に大きな懸物があって、おれの顔位な大きな字が二十八字かいてある。どうも下手なものだ。
あんまり不味いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々と懸けておくんですと尋ねたところ、先生があれは海屋と云って有名な書家ののかいたものだとおしえてくれた。
海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
※
・・・やがて御膳が出る。徳利が並ぶ。
幹事が立って一言開会の辞を述べる。
それから狸が立つ、赤シャツが起つ。
悉く送別の辞を述べたが、三人申し合わせたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのは洵に残念である。学校としてのみならず、個人として大に惜しむところであるが、御一身上の御都合で、切に転任を御希望になったのだから致し方がないと云う意味を述べた。
こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥ずかしいとも思っていない。
ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。
この良友を失うのは実に自分に取って大なる不幸であるとまで云った。
しかもそのいい方がいかにも、尤もらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるものだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極っている。
マドンナも大方この手で引掛けたんだろう。
山嵐のうらなり君への送別の辞
・・・山嵐は何を云うかと思うと・・・・
古賀君が一日も早く当地を去られるのを希望しております。
・・・が、聞くところによれば風俗の頗る淳朴な所で、職員生徒悉く上代撲直の気風を帯びているそうである。心にもない御世辞を振り蒔いたり、うつくしい顔をして君子を陥れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、君の如き温良篤厚の士は必ずその地方一般の歓迎を受けられるに相違ない。
・・・終わりに臨んで君が延岡に赴任されたら、その地の淑女にして、君子の好逑となるべき資格のあるものを択んで一日も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なる御転婆を事実の上に於いて慚死せしめんことを希望します。
えへんえへんと二つばかり大きな咳払いをして席に着いた。
※
・・・山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。
・・・・うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。
自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭しく御礼を云っている。
それも義理一遍の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、心から感謝しているらしい。
こんな聖人に真面目に御礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴しているばかりだ。
送別会でのドンチャン騒ぎ
挨拶が済んだら、あちらでもチューチュー、こちらでもチュー、と云う音がする。
おれも真似をして汁を飲んでみたがまずいもんだ。
口取りに蒲鉾がついているが、どす黒くて竹輪の出来損ないである。
刺身も並んでいるが、厚くって鮪の切り身を生で食うと同じ事だ。
それでも隣り近所の連中はむしゃむしゃ旨そうに食っている。
大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
※
・・・少々退屈したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして眺めていると山嵐が来た。
どうだ最前の演説はうまかったろう。と大分得意である。
大賛成だが一ヵ所気に入らないと抗議を申し込んだら、どこが不賛成だと聞いた。
「うつくしい顔をして人を陥れる様なハイカラ野郎は延岡に居らないから・・・・・・と君は云ったろう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被りの、香具師の、モモンガーの、岡っ引の、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
※
・・・酔っているもんだから、便所へ這入るのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。
酔っ払いは目の中る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
※
芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同が鬨の声を揚げて歓迎したと思う位、騒々しい。
・・・どうもやかまして騒々しくって堪らない。
そのうちで手持無沙汰に下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。
自分の為に送別会を開いてくれたのは、自分の転任を惜しんでくれるんじゃない。みんなが酒を呑んで遊ぶ為だ。
自分一人が手持無沙汰で苦しむ為だ。こんな送別会なら、開いてもらわない方が余っ程ましだ。
※
・・・野だは頓着なく、たまたま逢いは逢いながら・・・・・・と、いやな声を出して義太夫の真似をやる。
・・・野だも御目出度い者だ。
鈴ちゃん僕が紀伊の国を踴るから、一つ弾いて頂戴と云い出した。
野だはこの上まだ踴る気でいる。
※
向うの方では漢学の御爺さんが歯のない口を歪めて、そりゃ聞こえませぬ伝平衛さん、お前とわたしのその中は・・・・・・とまでは無事に済ましたが、それから?
と芸者に聞いている。
爺さんなんて物覚えのわるいものだ。・・・・・・
※
山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞をやるから、三味線を弾けと号令を下した。
芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。
山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟と真中へ出て独りで隠し芸を演じている。ところへ野だが既に紀伊の国を済まして、かっぽれを済まして、棚の達磨さんを済まして丸裸の越中褌一つになって、棕絽箒を小脇に抱い込んで、日清談判破裂して・・・と座敷中を練りあるき出した。
まるで気違いだ。
送別会でのうらなり君と野だいこ
おれはさっきから苦しそうに袴も脱がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴まで羽織袴で我慢して見ている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。
するとうらなり君は今日はわたしの送別会だから、私が先に帰っては失礼です、どうぞ御遠慮なくと動く気色もない。
なに構うもんですか、送別会なら送別会らしくするがいいです、あの様を御覧なさい。気狂会です。
・・・・・・座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、や御主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手を塞いだ。
おれはさっきから肝癪が起こっているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨で、野だの頭をぽかりと喰らわしてやった。
野だは二三秒の間毒気を抜かれた体で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。御撲になったのは情けない。この吉川を御打擲とは恐れ入った。愈以て日清談判だ。とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐何か騒動が始まったと見て取って、剣舞をやめて飛んで来たが、このていたらくを見て、いきなり頚筋をうんと攫んで引き戻した。
日清・・・・・・・・いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩ったら、すとんと倒れた。
乱闘事件
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・・・職員が幾人ついて行ったって何の役に立つもんか。
命令を下さないのに勝手な軍歌を歌ったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのに鬨の声を揚げたり、まるで浪人が町内をねりあるいてる様なものだ。
軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か喋舌ってる。
喋舌らないでも歩行けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生まれるのだから、いくら小言を云ったって聞きっこない。
※
・・・おれは宿直事件で生徒を謝罪させて、まあこれならよかろうと思っていた。
ところが実際は大違いである。
下宿屋の婆さんの言葉を借りて云えば、正に大違いの勘五郎である。
生徒があやまったのは心から後悔してあやまったのではない。
只校長から、命令されて、形式的に頭を下げたのである。
商人が頭ばかりさげて、狡い事をやめないのと一般で生徒も謝罪だけはするが、いたずらは決してやめるものではない。
よく考えてみると世の中はみんなこの生徒の様なものから成立しているかも知れない。
人があやまったり詫びたりするのを、真面目に受けて勘弁するのは正直過ぎる馬鹿と云うんだろう。
あやまるのも仮りにあやまるので、勘弁するのも仮りに勘弁するのだと思ってれば差し支えない。
もし本当にあやまらせる気なら、本当に後悔するまで叩きつけなくてはいけない。
※
・・・しかも大勢だから、誰が云うのだかわからない。
よし分かってもおれの事を天麩羅と云ったんじゃありません。・・・それは先生が神経衰弱だから、ひがんで、そう聞くんだ位云うに極っている。
こんな卑劣な根性は封建時代から、養成したこの土地の習慣なんだから、いくら云って聞かしたって、教えてやったって、到底直りっこない。
こんな土地に一年も居ると、潔白なおれも、この真似をしなければならなく、なるかも知れない。
向うでうまく言い抜けられる様な手段で、おれの顔を汚すのを抛って置く、樗蒲一はない。
向うが人ならおれも人だ。生徒だって、子供だってずう体はおれより大きいや。
だから刑罰として何か返報をしてやらなくっては義理が悪い。
ところがこっちから返報をする時分に尋常の手段で行くと、向うから逆捩を食わして来る。
貴様が悪いからだと云うと、初手から逃げ道が作ってある事だから滔々と弁じ立てる。
弁じ立てて置いて、自分の方を表向きだけ立派にしてそれからこっちの非を攻撃する。
もともと返報にした事だから、こちらの弁護は向うの非が挙がらない上は弁護にならない。
つまり向うから手を出して置いて、世間体はこっちが仕掛けた喧嘩の様に、見做されてしまう。
大変な不利益だ。
それなら向うのやるなり、愚迂多良童子を極め込んでいれば、向うは益増長するばかり、大きく云えば世の中の為にならない。・・・
※
「うん、あの野郎の考えじゃ芸者買いは精神的娯楽で、天麩羅や、団子は物質的娯楽なんだろう。精神的娯楽なら、もっと大べらにやるがいい。何だあの様は。馴染みの芸者が這入ってくると、入れ代わりに席をはずした、逃げるなんて、どこまで人を胡魔化す気だから気に食わない。そうして人が攻撃すると、僕は知らないとか、露西亜文学だとか、俳句が新体詩の兄弟分だとか云って、人を烟に捲く積りなんだ。あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中の生まれ変わりか何かだぜ。ことによると、彼奴のおやじは湯島のかげまかも知れない」
※
・・・舞台を右へ半町ばかりくると葭簾の囲いをして、活花が陳列してある。
みんなが感心して眺めているが、一向くだらないものだ。
あんなに草や竹を曲げて嬉しがるなら、背虫の色男や、跛の亭主を持って自慢するがよかろう。
※
歌は頗る悠長なもので、夏分の水飴の様に、だらしがないが、句切りをとる為にぽこぽんを入れるから、のべつの様でも拍子は取れる。
※
・・・今まで葛練りの中で泳いでいる様に身動も出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引き上げてしまった。
田舎者でも退却は巧妙だ。
クロパトキンより旨い位である。・・・
新聞記事
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・・・実は新聞を見るのも退儀なんだが、男がこれしきの事に閉口たれて仕様があるものかと無理に腹這になって、寝ながら、二頁を開けて見ると驚いた。昨日の喧嘩がちゃんと出ている。
喧嘩の出ているのは驚かないのだが、中学の教師堀田某と、近隣東京から赴任した生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾してこの騒動を喚起せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、漫りに師範生に向かって暴行を壇にしたりと書いて、次にこんな意見が付記してある。
本県の中学は昔時より善良温順の気風を以って全国の羨望するところなりしが、軽薄なる二竪子の為に吾校の特権を毀損せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然として起ってその責任を問わざるを得ず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢の上に加えて、彼等をして再び教育界に足を入るる余地なからしむる事を。そうして一字毎にみんな黒点を加えて、御灸を据えた積りでいる。
おれは床の中で、糞でも喰らえと云いながら。むっくり飛び起きた。・・・・
※
おれは新聞を丸めて庭へ抛げつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架ヘ持って行って棄てて来た。
新聞なんて無暗な嘘を吐くもんだ。
世の中に何が一番法螺を吹くと云って、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。
おれの云って然る可き事をみんな向うで並べていやがる。
※
・・・飯を食っていの一号に出頭した。
出てくる奴も、出てくる奴もおれの顔を見て笑っている。
何が可笑しいんだ。
貴様達にこしらえて貰った顔じゃあるまいし。
そのうち、野だが出て来て、いや昨日は御手柄で、名誉の御負傷でげすか、と送別会の時に撲った返報と心得たのか、いやに冷やかしたから、余計な事を言わずに絵筆でも舐めていろと云ってやった。
するとこりゃ恐入りやした。然しさぞ御痛い事でげしょうと云うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。貴様の世話になるもんかと怒鳴りつけてやったら、向う側の自席に着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣りの歴史の教師と何か内緒話をして笑っている。
新聞記事
「あんな奸物の遣る事は、何でも証拠の挙がらない様に、挙がらない様にと工夫するんだから、反駁するのはむずかしいね」
「厄介だな。それじゃ濡衣を着るんだね。面白くもない。天道是耶非かだ」・・・・
おれと山嵐はこれで分かれた。
赤シャツが果たして山嵐の推察通りをやったのなら、実にひどい奴だ。到底智慧比べで勝てる奴ではない。
どうしても腕力でなくっちゃ駄目だ。
成程世界に戦争は絶えない訳だ。
個人でも、とどの詰りは腕力だ。
あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、披いて見ると、正誤どころか取り消も見えない。
学校へ行って狸に催促すると、あした位出すでしょうと云う。
明日になって六号活字で小さく取消が出た。然し新聞屋の方で正誤は無論しておらない。
※
・・・つまり新聞屋にかかれた事は、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうする事も出来ないものだ。あきらめるより外に仕方がないと、坊主の説法じみた説諭を加えた。
新聞がそんなものなら、一日も早く打っ潰してしまったほうが、われわれの利益だろう。
新聞にかかれるのと、泥鼈に喰いつかれるとが似たり寄ったりだとは今日只今狸の説明に因って始めて承知仕った。
天誅
・・・赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極ってる。最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。
・・・四五日すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥さんの御有りになるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。
そんな夜遊びと夜遊びが違う。
こっちは天に代わって誅戮を加える夜遊びだ。
とは云うものの一週間も通って少しも験が見えないと、いやになるもんだ。おれは性急な性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。
如何に天誅党でも飽きる事に変わりはない。・・・・
※
「だまれ」と山嵐は拳骨を食わした。
赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法で沢山だ」とまたぽかりと撲ぐる。
「貴様の様な奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」とぽかぽかなぐる。
おれも同時に野だを散々に擲き据えた。
仕舞には二人とも杉の根本にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もう沢山か、沢山でなけりゃ、まだ撲ってやる」とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もう沢山だ」と云った。
野だに「貴様も沢山か」と聞いたら「無論沢山だ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が云ったら両人共だまっていた。
ことによると口をきくのが退儀なのかも知れない。
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平成12年5月11日作成
平成13年6月12日Web |
その夜おれと山嵐はこの不浄の地を離れた。
船が岸を去れば去る程いい心持がした。
神戸から東京までは直行で新橋に着いた時は、漸く娑婆へ出た様な気がした。
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