昭和20年4月・・・櫻の小枝を手に、多くの若者が海から、そして空から沖縄方面へ特攻として散っていった・・・
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| 宇佐航空隊の99式艦爆22型を背に、桜の小枝を持って記念写真におさまった神風特別攻撃隊八幡護皇隊艦爆隊員 『神風特別攻撃隊』 モデルアート11月号臨時増刊(1995年11月31日発行) 写真着色 | ||
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![]() 回天特別攻撃隊(人間魚雷) 昭和20年4月20日 桜の小枝を手に出撃直前の天武隊 |
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| 『 神なき神風 』 【特攻】五十年目の鎮魂 三村文男著 東京経済 | |||
目 次
神戸市長田区 三村医院 院長 |
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| 三村文男氏の近著 『米内光正と山本五十六は愚将だった』 | |||
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| とかく感傷的にのみ語られがちな、前大戦のわが国の「特攻」についてを、従来とは異なった視点で捉えた本・【特攻】五十年目の鎮魂 『神なき神風』( 三村文男著 平成9年東京経済発行)と、そのなかの若き学徒兵の手記をご紹介します。 「断想」および「川柳」は特攻、および、特攻同然の出撃を目前にした学徒隊員が遺したものです。 予知された敗戦と、不条理な作戦によって決定された死と対峙するなかで記した、次世代へ向けての珠玉の散文の作者も、確実な死を目前にした、まさに必死のなかで、状況を冷静に見つめ、ユーモアに託したのも同じ日本人、23歳の若者だったのです。 聞くに堪えない事件、偽善の福祉・奉仕、低俗なお笑い番組に溢れたテレビコマーシャリズムの氾濫に慣らされた今日であればこそ、単なる戦争の感傷としてだけでなく、歴史の事実として、こうした気高い、真のインテリジェンスの存在を語り伝えることも、世代を繋げるものの責務ではないかと思い、掲載させていただいた次第です。 なお、「 『 かみかぜ』 ではなく 『 しんぷう』 ではないか」、との意見があるようですが、『 神なき神風 』の著者三村氏によると、
・・・とのことです。 三村氏は著書のなかで特記されているので紹介させて頂きました。 |
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| 本文より | |||||||
| 「断 想」 『神なき神風』(三村文男著)より |
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| ・・・今の若い人たちは、恐らく若者がより若い世代に後事を託する気持ちを奇異に感じられるだろう。 だが日本の将来に祈りをこめて、バトンを渡そうとした事実はあったのだ。 もう敗戦は目に見えていて、みずからの命もながくないと判断した時、後の世代に望みを持つ以外に道があっただろうか・・・・・・・・ |
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| 三村文男 【特攻】50年目の鎮魂 『神なき神風』より抜粋 |
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| 本文より | ||||||||||||
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『神風特別攻撃隊』 モデルアート11月号臨時増刊 (1995年11月31日発行) |
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| + | 生きるのは良いものと気が付く三日前 後三日 酔うて泣くもの笑うもの 未だ生きてゐるかと 友が訪れる する事のない今日 明日の死が決まり 明日死ぬと 覚悟の上で飯を食い 沈んでる友 母死せる便りあり 雨降って 今日一日を生きのびる 明日の空 案じて夜の窓を閉め 明日の晩 化けて出るぞと友脅し 明日征くと 決まった友の寝顔見る 神様と 思えばおかし此の寝顔 人形に 彼女に云えぬ事を云い 真夜中に 遺書を書いてる友の脊 殺生は 嫌じゃとしらみ助けやり 体当たり さぞ痛かろうと友は征き 痛かろう いや痛くないと議論なり これでかう ぶつかるのだと友話し アメリカと 戦う奴がジャズを聞き 夕食は 貴様にやると友は征き 犬に芸 教えおほせて友は征き ♂ |
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特攻へ 新聞記者の美辞麗句 特攻隊 神よ神よとおだてられ 各々の ふるさと向かいて別れ告げ 万歳が この世の声のだしをさめ 俺の顔 青い色かと友が聞き 必勝論 必負論と手を握り 機上にて 涙の顔で笑って居 死ぬ間際 同じ願いを一つ持ち 父母恋し 彼女恋しと雲に告げ あの野郎 行きやがったと目に涙 還らぬと 知りつゝも待つ夕べかな 今日もまた 全機還らず月が冴え 春の空 今日も静かに暮れて行く 友を待つ 空にまばらな星のかず このほかにも もろ共と 思えば愛しこのしらみ 神様が 野糞をしたり 屁をしたり 不精者 死に際までも垢だらけ ・・・・・・等もあったように思う |
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| ・・・今これを読みかえしてみて、私と同世代の若者たちが、平和な日本では想像も付かぬ一日きざみの生をいとおしみつつ、出撃までのわずかな日々をおくっていたことに胸がうずく思いである・・・・・ | ||||||
| 三村文男 【特攻】50年目の鎮魂 『神なき神風』 より抜粋 | ||||||
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| mw 三村文男著 【特攻】50年目の鎮魂 『神なき神風』 (東京経済 平成9年3月24日発行 再販あり)より抜粋 |
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| 帝国陸海軍の栄光とはなにか、特攻である。 汚点とはなにか、特攻である。 いきなり結論めいた書き出しで恐縮だが、この命題を論証することが、私の年来の課題であった。 (第1章 帝国陸海軍の栄光と汚点) |
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| 太平洋戦争中、米海軍は、日本海軍にたいして、『日本海軍の下士官たちは世界一優秀だが、士官は落第だ』と評した。 日本海軍の高級将校たちは、作戦計画作成・指導が拙劣で、手強い相手ではないという事である。 ノモンハン事件の場合は、『日本陸軍の第一線将兵は世界一優秀だが、高級指揮官・参謀は落第だ』ということになろう。 高級指揮官や参謀らにたいしてこそ、厳正な信賞必罰をおこない、失敗を繰返さないようにすべきなのである。 こういう帝国陸海軍(当時皇軍といわれた)軍人の価値観を背景として、特攻作戦、特攻命令という外道が生まれたのであった。 特攻精神は日本だけのものではなかったのである。 (イラン・イラク軍 /対アメリカ、 ナチにたいするノルウェー議会および軍、 ほか多くの事例 ) 日本にだけ特異なものでなく普遍性があったという事である。 区別すべきは 「特攻を作戦に組み込んだ」 帝国陸海軍の上級指導者たちの“外道”こそが、戦争末期の日本だけに特異なものであって、普遍性のないものであったということだ。 ・・・上級者たちは、たとえ、若者が特攻出撃を自ら申し出たとしても、人間の尊厳を否定する行為の非なることを説得して、やめさせるべきであった。 出撃命令を出した者たちは、特攻は志願であったといって、責任逃れをすることが多いが、本当に志願であった場合でも、それをやめさせなかった罪は、人道にそむくことの罪である。・・・・・ |
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| (第9章 50年目の鎮魂) | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 著者 三村文男氏 | |
| 神戸市長田区 三村医院 院長 | |
| 『米内光正と山本五十六は愚将だった』 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 「海軍善玉論」の虚妄を糾す | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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次 (※リンクは「Tante2」編集者) |
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| 発行所 テーミス株式会社. | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2002年7月1日 初版発行 |
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| 本文の一部 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 大西が特攻隊を創設し、最後まで強行し続けたことは事実だが、それによって大西ひとりを暴将とする声には、首をかしげざるを得ない。特攻戦術が実現するには、上部の意思がうごいていた。彼を比島の第一航空艦隊司令長官に任命したのは米内海相である。特攻戦術は諒解済であった。・・・ ・・・人間魚雷回天の命令書も、米内海相、井上次官の名で出されていることが、戦後明らかになった。井上は戦争末期にはこれ以上特攻を続けるべきではないと、米内に向って主張したがいれられず、更送されてしまった。米内は大西と共に最後まで特攻作戦をすてなかったのである。しかし外道の責は大西ひとりがかぶって自決し、米内は免れてそれを異とする者をみない。強運というべきか、それとも処世のしたたかさとすべきだろうか。 |
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| 第一章 昭和の悲劇と米内光正 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『回天特攻』 2006年10月13日発行 著者 小島光造 褐人社 NF文庫 |
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| mae まえがき |
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人間魚雷回天特別攻撃隊の生き残りの隊員から、つぎのような文がよせられている。 「こんな日本のために特攻までやって一体、何が残ったのか。英霊は何と思っているのか。日本は精神面ですでに亡国の民、道義のない国になっている」 「一体、何が残っているのか」との問いに対しては、結論から言えば、「上層部の無責任だけが残った」と答えるはかない。この無責任体制を「空気の責任」と呼ぶことにする。この無責任体制が後々まで日本全国にはびこることになり、道義のない社会を作り出すことになってしまった。この「空気の責任」の本質を解明するのが本書の目的である。 本書は回天作戦に参加した若い戦士の物語ではない。回天作戦に従事した戦士の殉国の精神は、いくら顕彰しても、し過ぎることはないし、その精神は永久に伝えねばならない。しかし、特攻までやって戦って、後世の日本に何を残したのか。私はその最たるものとして上層部の責任の曖昧さをあげる。幾多の有為なる青年を死に追いやりながら、誰がどのようにして責任をとったのか。 必死の特攻兵器回天を兵器として採用した軍令部の責任、また用兵にあたった連合艦隊司令部と六艦隊司令部の責任、さらには人事や教育訓練担当者の責任など、上層部のいい加減な責任体制にメスを入れようとするものである。この曖昧な責任観は、戦後の日本人の責任観の源になってはいないだろうか。これらを明らかにすることによって、日本人の唆味な責任体制に猛省を促すことができれば、人間魚雷で殉死した純真な青年の死が無駄でなかった、といえることになる。同時にこの際、日本人にとって責任とは何かについて、原点にさかのぼって考えてみたいと思うものである。 私がなぜこのような問題に取り組もうとしたかといえば、その淵源は昭和十七年(一九四二年)ごろまでさかのぼらねばならない。当時、私は特殊潜航艇(甲標的 ※〔ウィキペディア〕) の艇長として、訓練基地たるP基地(広島県倉橋島)にいたが、そのとき回天創始者の黒木博司(※〔ウィキペディア〕)が同基地に着任した。彼が着任早々、「甲標的の頭部に爆薬を装着し、体当たりできるように上申したいが、連名して血判を押してくれ」との話を持ち出したことに端を発する。私は黒木の考えに真っこうから反論した。 「俺は甲標的の艇長として責務を全うしようとしている。艇が沈む時は、艇付(※同乗下士官)も一緒に死ぬことになるだろう。しかし、俺は艇付に対して、俺と一緒に死んでくれるか、とおくびにも言い出せないでいる。貴様の構想では、初めから自分の部下に死ねと命令することになる。 貴様自身は死を覚悟しているのでそれでも満足するだろうが、部下はそれでいいのか」 最後に、「貴様は自分のことしか考えないエゴイストだ」といったことが脳裏から消えないからである。結局のところ、「敵の攻撃を受け、ニッチもサッチもいかなくなった場合、敵と相打ちせざるを得ないと判断したときに相手に衝突するために使う。それであるなら、艇付にも納得してもらえるだろう」ということを条件に血判に同意した。 回天は当初、マルロク金物として構想されたが、それは魚雷というより一人乗りの小型潜航艇といった方がぴったりするものであった。私は甲標的の艇長の経験からして、マルロク金物は機構の複雑さ、航法能力の貧弱さ、水中航走特性の不安定さ、運転操縦の難しさ、隠密性保持の困難性、何よりも難しいのはどうやって会敵・衝突させうるか、といった多くの問題を抱えており、決して有効な兵器ではないことが予見できた。「このように役に立ちそうもない兵器のために、人命を犠牲にしてもよいのか」というのが私の最大の疑問であり、研究会の席上でも、また黒木に対しても、意見を述べた記憶がある。 私は回天はよもや正式兵器に採用されることはあるまいと思って、昭和十九年(1944年)五月、フィリピン戦線に向け出発した。その後、黒木が殉職したことを風の便りに聞いたほかは、その後の回天については詳細は知るよしもなかった。しかし、終戦後、回天に関して、隊員の募集、訓練、作戦など全貌を知る機会を得たが、私が当初、危倶していたことがそのまま現実となって現われたことに、私自身が驚博した次第であった。 ここにおいて、素朴な疑問にかられたのであった。
結局、回天とは何であったのか。極端な見解を示せば、黒木個人の死の美学を満足させるための道具に過ぎなかったのではないかとさえ思わせる。それが「青年の殉国の精神にこたえる」という美名のもとに、人間の死を前提とした特攻作戦へと発展する。 ここで、帝国海軍における責任について考えてみたい。 軍艦の例をあげると、帝国海軍の伝統として、艦が沈むときは、生き残った乗員を全員退避させた後、艦長は最後に艦と運命を共にして自らの責任を明らかにした。 航空特攻作戦においては、その創始者大西瀧治郎は、終戦直後の八月十六日、割腹自殺した。また作戦指揮官たる字垣纏は、終戦の日の午後、搭乗員を道連れにしたという汚点を残したにせよ、自ら特攻機に乗り、死をもって責任をとった。この両者は艦長という職務ではなかったにせよ、その責任のとり方は帝国海軍の伝統に則したものといえよう。 それでは回天作戦においては、あれほど多くの青年を死に追いやったにもかかわらず、誰がどのような責任をとったか、今なお歴史上の謎である。この回天作戦における上層部の責任の唆昧さが、戦後の日本の無責任体制の遠因ではなかったかとする仮説も、意外と当を得たものがあるような気もする。 ここにあらためて、日本人にとっての責任とは一体何か、を考えさせられるのである。 回天特攻という日本の歴史上特筆さるべき重大なる事項を通じて、日本人にとって責任とは何かを探求するのが本書の狙いである。 本書においては、私がP基地にいで黒木と交際していたときのことは体験談として記載し、回天作戦が本格的に動き出した後のことはまったく分からないので、いろいろな文献を参照した。できるだけ正確を期するために、同じ事項でも複数の文献をそのまま引用して分析するという態度をとった。また、後半においては、回天作戦とは無関係に日本人の責任観について分析するとともに、最後に戦後の日本における「空気の責任」(※山本七平 『空気の研究』)、つまり無責任体制について幾多の例をあげて解説する。 |
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