私は貝になりたい    BC級戦犯 (『ウィキペディア』)
TBS.



 昭和33年(1958)放映 芸術祭文部大臣賞受賞
 平成 3年(1996)再放映
東京裁判 ポツダム宣言 ...捕虜の定義 J・ファーネス 御前会議  終戦後60年
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戦後13年目、東京裁判・戦争指導者・A級戦犯裁判についての論評はさまざまあるが・・・の決着から10年・・・そのころの民放の傑作テレビドラマで、今次戦争のもうひとつの悲劇・「BC級戦犯」と「旧軍組織の欠陥」、「国際法に関する無知」、「命令における責任」等がはじめて画像として国民の前にさらされた。

死と対峙した戦場から帰還し、小市民の平和が回復されたなかでの「思ってもいなかった容疑」での逮捕。そして、一見公平なかたちを装った裁判で決定されたもうひとつの強要されたこうした死の事実が国民に与えたショックは少なくはなかった。
しかしこのドラマは、悲劇を「戦争」だけに原因付けし、旧軍軍組織に代表され、現在につづく官僚組織の責任・欠陥を冷静に見据えることから目をそむけさせ、国民にひたすら沈黙する「貝になる」道を選択させたのではないだろうか・・・・


貧しい家庭に生まれ小学校卒業後床屋の小僧となった主人公・清水豊松(フランキー堺)は苦労の末結婚(房江・桜むつ子)、夢だった店を出し、子供も生まれた・・・そうした小市民のささやかな幸せの中に赤紙が届く・・・入隊

落下傘降下したB29搭乗員を逮捕に向かう部隊に伝令として差し向けられ、同僚の二等兵とともに捕虜刺殺の命令を受ける。

矢野司令官 日高中隊長に命令
 「捕虜を逮捕、“適当に処分せよ

逮捕された搭乗員は意識不明、瀕死の重症

日高中隊長
(終戦時自決)命令
 「司令官の処分命令である
 「戦意高揚の為初年兵教育実施。清水二等兵と滝田二等兵、捕虜を刺殺せよ」
 躊躇する二人に・・・
 「上官の命令は事の如何を問わず、天皇陛下の命令である!

班長・木村軍曹

 清水・滝田二等兵に現場で直接命令

戦争が終わり復員、床屋再開。これからという時、戦犯容疑で逮捕される。
銃剣で突くには突いたが、胆が縮みあがって腕しか突けなかった。そのおかげで後で班長から臆病者だの班の面汚しだと足腰立たないほどぶん殴られたんだ! ・・・・・ ドラマの中で清水豊松 (逮捕された後、雑居房の中で)

BC級裁判法廷

手前 通訳(田中明夫)

木村軍曹(清村耕治) 有期刑 下士官(小松方正) 有期刑


清水二等兵(フランキー堺)

通訳 あなたはあなたの気持ちで殺そうと思ったのですか?
清水 何遍言ったら解るんだ!日高大尉から命令されたからです。
通訳 命令された時のその紙に誰の名前が書いてありましたか?
清水 命令に紙なんか・・・これですよ(といって自分の口を指す)
通訳 あなたはその命令がよいことだと思っていましたか?
清水

命令がいいも悪いもありませんよ。上官の命令は天皇陛下の命令です。絶対服従しなければならないんです。
通訳 あなたは天皇に会ってその命令を聞いたのですか?
清水 なにを馬鹿な!
通訳 あなたはどうしてその命令をいやだといわなかったのですか?
清水 わかんないんだな・・・そんなことをしようもんなら銃殺だよ!!まったく・・・
通訳 あなたの心はその捕まえた人を殺したいと思ったのでしょう?
清水

あんたはね、いったいどこの国の話をしてるんですか!!日本の国は、二等兵は、牛や馬と同じなんですよ!!牛や馬と!!!

判決
通訳 あなたは捕まえた人を殺した。だからAの問題で有罪。絞首刑。
    


明朝0時30分執行を告げられる。

左 清水豊松(フランキー堺) 右 教戒師(河野秋武)

教誨師
「まだあと12時間ありますから・・・・遺体は軍の規律で遺族には引き渡されないそうです・・・頭の毛か爪を切って遺族に送られたらいかがでしょうか・・・」

教誨師と最後の晩餐(仏壇に3本の線香をあげる)
教誨師
「一本は清水さんの分、1本はなくなられた清水さんのお父さん、もう一本は亡くなられたおかあさんのために・・・・」

清水豊松

「つまんない一生だったもんな・・・・あっという間の33年だった・・・」
「・・・・とにかく貧乏だったからな・・・小学校出るなり十二で床屋の丁稚子小僧だ。だんなや兄弟子からノロマだとかぶきっちょだとか怒鳴られたり、こずかれたりしながら、やっとの思いで免許状をとったって店なんか持てやしない・・・
そのうち高知の散髪屋で働いているカミさんと知り合いになって、夫婦約束して8年間、お互いに血のにじむような金貯めて、やっとの思いで店を開いて、子供も出来て、やっとこれからだという時に、赤紙でしょう・・・・まったくついてませんよ・・・」



短い鉛筆で遺書を書く・フランキー堺のナレーション

「私は貝になりたい」より
 

房江 健一 さようなら

お父さんはもう二時間ほどしたら死んでいきます
おまえ達とわかれて遠い遠いところへ行ってしまいます

 もう一度会いたい
 もう一度みんなで暮らしたい

許してもらえるのなら手が一本 足がひとつもげてもいい
  おまえ達と一緒に暮らしたい
でももうそれも出来ません

せめて生まれ変わることが出きるのなら・・
いいえ お父さんは生まれ変わっても人間になんかはなりたくありません
 人間なんて嫌だ
 牛か馬のほうがいい
いや 牛や馬ならまた人間からひどい目に遭わされる
どうしても生まれ変わらなければならないのなら いっそ深い海の貝にでも・・・
 そうだ 貝がいい

貝だったら 深い海の底の岩にへばりついているから なんの心配もありません
 兵隊に取られることもない
 戦争もない
 房江や健一のことを心配することもない

どうしても生まれ変わらなければならないのなら
・・・わたしは貝に・・・
(刑場鉄扉閉まる)

深い海の底の貝だったら
  戦争もない
  兵隊に取られることもない
  房江や健一のことを心配することもない

どうしても生まれ変わらなければならないのなら
・・・・・・・・・私は貝になりたい


「私は貝になりたい」より
・・・・・・.



私は貝になりたい
TBS 昭和33年(1958)放映

構成 橋本  忍
原作題名遺書 加藤哲太郎
演出 岡本愛彦

配 役
清水豊松 フランキー・堺
妻 房江 桜むつ子
子供・健一(子役)平山  清
房江 妹 高田敏江
役場 赤紙配達
近所の仲間
   同
  
参 謀
司令部将校
木村軍曹
下士官
滝田二等兵
同房死刑囚
少佐 
少尉
教戒師
通訳
増田順二
阪本  武

十朱久雄
垂水悟郎

大森義雄
原  保美
清村耕治
小松方正
熊倉一雄
内藤武敏
恩田清二郎
浅野進治郎
河野秋武
田中明夫
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特別出演
弁護人 J・ファーネス
東京裁判の重光葵弁護人・・
日高大尉 南原伸二
矢野司令官 佐分利信


特別出演

東京裁判 重光葵弁護人 J・ファーネス




左 J・ファーネス 右・矢野司令官(佐分利信)
「私は貝になりたい」より



獄中で矢野司令官を散髪する清水


謙一と房江
妻 房江(桜むつ子) 子供 健一(平山  清)

・・・胸の詰まる思いのする悲しい台詞である。・・・・

日本の軍務官僚・戦争指導者・高級指揮官の思い上がりからはじまった昭和の戦史は失敗作戦の見本市の様相を呈している。米軍は日本軍の第一線将兵は世界一優秀だが、高級指揮官・参謀は落第だ、と評した。
しかし、その失敗を組織はどのように総括したか?
ひとことでいえば、失敗を失敗と認めず、責任者はなんの追求もされなかった。

「暴支膺懲」のスローガンの下に強い一撃を加え、南京を落とせは中国は屈服すると信じ、日中戦争のさらなる泥沼に・・・・

ノモンハン事件においては、司令部の見通しのあまさと兵力小出しの作戦が、死傷率79%、12,230名の犠牲を出すとともに、下級指揮官には自決強要しながら上級指揮官の責任は追求されなかった。

ガダルカナル、インパールの失敗も多くの悲惨な戦闘と犠牲を招きながら、責任はけっして上級指揮官には及ばなかった。

不時着して捕虜になったが、その後進攻した味方に救い出された日本海軍パイロットには戦陣訓・「生きて虜囚の辱めを受けず」のもとに「自爆出撃」を命令。
一方、いわゆる「海軍乙事件」となった上級指揮官(福留参謀)の捕虜・救出にはおとがめなし・・・・・こうした高級指揮官に甘く下級兵士にきびしい事例は枚挙に暇がない。

そして戦後、将校のほとんどもジュネーブ協定の重大性どころか存在すら知らず、したがって捕虜に対する取り扱いの教育はまったくしなかった旧日本軍指導者の無知国際性の欠如は、BC級の罪なき多くの下級指揮官・下士官そして兵、軍属(朝鮮、台湾出身者まで!)にまで過酷な刑罰と悲劇をもたらした。戦後捕虜虐待容疑で逮捕、刑死した1,000名以上に上るBC級戦犯のうち、下士官・兵・軍属は6割を超えている。
私は貝になりたい」は元死刑囚・加藤哲太郎氏(ウィキペディア)の遺書をもとに、BC級裁判 (石垣島事件等) を参考にして作成されたと推察される。

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日清戦争の黄海の海戦における伊藤祐亨中将が敗れた清・北洋艦隊の丁女昌提督に、また日露戦争、日本海海戦での東郷平八郎司令官がバルチック艦隊司令官ロジェストウェンスキーに対する敗軍の将の名誉を守った接し方、そして第一次世界大戦の青島攻撃において捕虜としたドイツ兵捕虜に対する国際条約を尊重した人道的扱いは、今も輝ける武士道精神として語り継がれている。
こうした先人の教訓は昭和の軍務官僚にはまったく届かなかったのである

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この悲劇の演出の助手として、戦前、戦中は「感情的」に国策を煽り、戦後は「感傷的」戦争論に終始して、幻の平和を追いつづける日本のマスコミの介在も感ずる。

戦時中の新聞記事

国民の覚悟は出来ている。ひじきの塩漬で国難に処せんとする決意はすでに立っている。待つところは進めの大号令のみ。」
昭和16年10月17日 朝日新聞朝刊

(米兵が、日本兵の髑髏を記念品として少女に送ったという記事を写真と共に米誌 『ライフ』 が掲載した事に関して)

我が勇士の遺骸が、こんな姿で我々の目に触れようとは夢想だにしなかった。必ず、この仇討つぞ。こんな手合に人道だ何だといっても始まらぬ。もう米英に関する限りそれこそ徹底的に報復を加へねば止まぬぞ。支那事変を速かに処理し、全力、全憎悪を米国に向けよ。米兵に対しては、もはやなんら仮借する(許す)必要はない
朝日新聞 昭和19年8月13日


こうした悲劇ののちの現在に至るわが国の繁栄は彼らの犠牲の上にも立っているということを忘れてはならないのではないだろう。

我々は決して「沈黙する貝」にならず、また「幻の平和」を希求するだけでなく、彼らに非情な運命を負わせ、そして現在の官僚組織にも引き継がれている、あいまいな命令と責任の所在に対し、常に「市民としての目」をもって見続けることこそが、彼らに報いることになると確信する。


A級戦犯刑死者
      7名
(但し通常の戦争犯罪による)
侵略戦争を計画、謀議、遂行した平和に対する罪(事後法)
 
1945/8/8 ロンドン協定 米英仏ソ 論議・・・

B・C級戦犯刑死者 1,068名
 B級戦犯 (半数以上が下士官・兵・軍属)
戦争法規、及び慣習の違反
 (捕虜虐待を含む通常の戦争犯罪容疑)
 
1929 ジュネーブ協定 
  日本は署名はしたが批准せず「尊重し、準用する」とした。
  しかし連合国は「批准」とみた。

 C級戦犯
人道に対する罪
  (俘虜の虐待を含む 事後法)
 1945/8/8 ロンドン協定
 米英仏ソ
  


「私は貝になりたい」より

通例の戦争犯罪
戦争の法規または慣例の違反。

捕虜」「戦争法規」とは・・・
1907年(明治40年)、オランダのハーグにおいて締結された「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約リンクの付属書・同規則によって定められた者で、敵に捕らえられた交戦者を捕虜という。日本も署名、そして第44条を除いて批准していた。

この規則は第一次大戦後の1929年(昭和4年)、その原則を拡張して「俘虜の待遇に関する条約」となった。いわゆる97か条のジュネーブ条約 (リンク 防衛省・自衛隊HP)である。
日本はこの条約に調印はしたが、枢密院での賛成が得られず、批准は保留されたままとなった。
太平洋戦争に突入直後、連合軍側から条約適用の希望書簡を受けた政府は「準用する」というあいまいな回答を返した。

尊重はする。だが、わが国はあくまで批准はしていないのだ」とした日本軍部。
準用とは批准と同じことだ」ととらえた連合軍。
この食い違いが、のちに、俘虜収容所の任務についていた日本軍の将兵、軍属の運命を左右することになった。

連合軍側は国際条約が国内法に優先するとの立場から前述のごとく「準用とは批准と同じことだ」と解釈し、戦線に出る兵士には、敵の捕虜になったときの心構えを教えた。連合軍将兵はジュネーブ協定の写しをポケットに入れ戦場に向かったのだ。

一方日本軍は、「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓のみで、自分が捕虜になったときの心構えは勿論、捕虜とした敵の取り扱い方法も教えず、『これだけ読めば戦は勝てる』 『華僑とは何か』・・などというお題目のような小冊子のみを将兵に渡し戦線に赴かせた。

こうした国際感覚の欠如した教育が、戦後の日本軍の将兵・軍属の戦場での戦死以上の悲劇を招いたのである。
ポツダム宣言第10項の「われ等の捕虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし」とした根拠は「日本がジュネーブ条約を守ると約束しながら、それを破ったのは国際法への背信である」という根拠だったのである。
参照新聞記者が語りつぐ戦争6 『BC級戦犯』
読売新聞 大阪社会部 編 平成5年5月10日発行
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国際法による捕虜の定義  ジュネーブ条約 リンク 防衛庁・自衛隊HP )
正規の軍隊の構成員でなくて捕虜となることのできる者は、次の条件を満たす者でなければならない。
(a) 部下について責任を負う一人のものが指揮していること
(b) 遠方から認識することのできる固着の特殊標章を有すること。
(c) 公然と武器を携行していること
(d) 戦争の法規及び慣例に従って行動していること
捕虜の待遇に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第三条約)、第四条(捕虜)となるもの(2)
ことに大切なのは(d)すなわち、国際法を知悉していることである。

自衛官はもちろん、ボランティアでも警察官でも、国際法を知っていれば、捕虜になって“いたれりつくせり”の特権が得られる。
逆に国際法を知らなければ百年目。戦犯あるいは殺人者として銃殺されるかもしれない。
『自ら国を潰すのか』 1993年7月31日発行
渡部昇一 小室直樹共著302頁
捕虜に対する禁止事項(捕虜の特権)
  名誉を剥奪することは禁止
  死刑・障害・拷問はいかなる場合も禁止
  人質にすることの禁止
  営舎・食糧・被服も良好なものでなければならない
  健康にも留意 捕虜の風俗習慣も考慮に入れる

・.


  戦争犯罪人:戦争の法規、慣例違反等、通常の戦争犯罪
@

交戦者の戦争法規の違反(非戦闘員の殺戮、毒ガス、ダムダム弾等非人道的兵器の使用、捕虜の虐待、海賊行為等)
南京爆撃 重慶爆撃 東京無差別大空襲そして原爆・・・
A 非交戦者の戦闘行為 ※正規軍にあらざる戦闘行為
B 掠奪
C スパイおよび戦時反逆

捕虜については「生きて虜囚のはずかしめを受けず」という「戦陣訓」のみで、ジュネーブ協定の存在すら知らず、したがって捕虜についての教育はまったくしなかった戦争指導者・軍務官僚の無知と国際性の欠如は、いわゆるBC級の罪なき多くの下級指揮官・下士官そして兵、軍属(朝鮮、台湾出身者まで!)にまで過酷な刑罰と悲劇をもたらした

  捕虜に対する禁止事項
(捕虜の特権)

    ●軍事的性質をもった労働の禁止
病院建設に関わる事はできても、軍事基地建設に関わる事はできない。また本人が 志願しない限り、生命に関わる危険な作業は禁止
    ●名誉を剥奪することは禁止
    ●死刑・障害・拷問はいかなる場合も禁止
    ●人質にすることの禁止
    ●営舎・食糧・被服も良好なものでなければならない
    ●健康にも留意 捕虜の風俗習慣も考慮に入れる

いわゆるBC級戦犯刑死者1,068名のうち、准士官・下士官・兵・民間人・文官・軍属は609名(うち朝鮮・台湾出身41名


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刑死したB・C級戦犯 1,068名

将  官
佐  官
尉  官
准士官
下士官
...........
民間人
.(大将 中将 少将)
.(大佐 中佐 少佐)
.(大尉 中尉 少尉)
.(准尉 兵曹長)  
.(曹長 軍曹 伍長)
.(兵長 一・二等兵).
文 官/軍 属
  59名
 118名
 262名
89名
316名
28名
196名
(内 朝鮮出身 21名)
(内 台湾出身 20名)

世紀の遺書 巣鴨遺書編纂会編 
昭和28年12月1日発行
外筥 東山魁夷画伯黎明の遠山 
領価 1千円

この692篇の遺書・遺稿のなかの多くは、このドラマのような悲劇にみまわれたものである。


世紀の遺書表紙 巣鴨遺書編纂会編 昭和28年 中村岳稜画伯 獄舎と永遠の自由と平和の昇天 白鳩


世紀の遺書 巣鴨遺書編纂会編 昭和28年 表紙見返し 中村岳稜画伯



戦犯叢書 昭和57年2月28日 (株)図書刊行会


『巣鴨プリズン13号鉄扉』 1981年3月20日発行
上坂冬子 (株)新潮社


『貝になった男』 1986年8月15日 上坂冬子
(株)文芸春秋


『償いは済んでいる』 1995年4月20日 上坂冬子
講談社


『最後の学徒兵』 1993年8月1日 森口 豁(かつ)
講談社


 著者 岩川 隆
 JRA賞馬事文化賞(平成6年)

   第17回講談社ノンフィクション賞(平成7年)       
『孤島の土なるとも―BC級戦犯裁判』

 著者 岩川 隆
 昭和53年10月
中央公論社/中公文庫
神を信ぜず BC級戦犯の墓碑銘
武士道裁判 千葉県〜横浜法廷
私刑
監獄島 シンガポール・チャンギー刑務所